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help リーダーに追加 RSS 遠野出身者の東京見聞35;ヨブ記論考補遺その1

<<   作成日時 : 2008/07/20 10:42   >>

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 ヨブ記のことば「主は与え、主は奪う」(1章21)にこだわってみたい。ヨブのこのような感慨をこれまでどれほどの人々が口にしたことであろう。それまで思いを込め心を尽くして築いてきた生活の幸運に驕ることもなく、むしろ有難い恵みと思って感謝して慎ましく享受してきていたのが不慮の災厄で一瞬に失せる悲劇をこれまでどれほど多くの人が体験して来ていることであろう。この人生ドラマが新聞紙上に載らない日がないくらいである。
 山口県光市の本村洋さんの家族を襲った母子殺害の悲劇、福岡市の大上哲央夫妻の愛児3人の命を奪った酒飲運転による交通被害、横田滋と早紀江の夫妻からめぐみさんを奪った北朝鮮による拉致事件と、悲しい事例を幾らでも挙げることが出来る。「主は与え、主は奪う」の人生体験は普遍的な人間ドラマである。この体験に人々がどう向き合ってきか、大げさに言うと人類はどう向き合い、どう説明し納得しようとしてきたのか。この辺のところをヨブ記を出発点にして考えてみたい。これまで述べてきたことのまとめにもなるヨブ記論考補遺である。繰り返しの部分はご容赦下さい。


 1.ヨブ記に即して

 1)ヨブ自身はどうであったか。

 ヨブは「主は与え、主は奪う」のことばを最後の最後まで叫び続けて主なる神に説明を求めた。しかし、神からの説明はなく、身の程を知れと叱責されて黙ってしまった。ヨブ記の終章(42章)は聖書学者も認めているように付け加えに過ぎないので、ここでのヨブの悔い改めと神による赦しは論外にして良いようである。だからヨブには自分の受難は不可知のままに留まっていると解釈してよい。もっともユングはすでに見たように別の解釈をしている(「ある意味で神が人間以下である」とヨブが悟る)。

 2)信者はヨブ記に即してどう理解するか。

  @ 塚本虎二 ;関東大震災で愛妻を失う災禍に見舞われた。当初は神は愛などではない、残酷な方だと神を呪う気持ちになったが、のちに自分が受けた不幸を「絶望を希望に変える」神の御業として受け止めた(青山学院大学公開講座「近代日本のキリスト者の信仰と倫理U0’6年7月)。
  A H.S.クシュナー ;愛児が難病の早老症になって苦悶したユダヤ教のラビが最後に辿り着いたことは、起こってしまったことについてあれこれと原因追求したり誰のせいかと責任所在を求めたりする不毛な問いかけを止めて前向き思考に転換することの大切さの認識であった。神も心を痛めて共に寄り添っていられると信じること(前掲書「なぜ、私だけが苦しむのか」参照)。
  B 江礼宮夫 ;絶望的などん底の中で人は初めて己の新の姿(卑小と無力)に気付いて、自己を捨てることで神に出会い、神を見ることが出来るのである(ウエブHP;旧約聖書・やぶにらみーヨブ記T)。
  C 山中信児 ;ヨブは「神は奪う」の面にのみに心を奪われて神に抗議した。しかしあとで自分の傲慢と不遜に気付いて悔い改め、神から過分の祝福を受けることが出来た(ウエブHP「shinji牧師の家」1993年夏季修養会講義記録:ヨブ記を読む)。
  D 内坂晃 ;自分が主張する己の潔白(無垢)と義しさが実は神の支えがあって可能であることをヨブは受難の当初は分からなかった。しかしのちに自分の思い違いに気付いて悔い改めた。宗教的真理を苦難体験を通して悟ったのである(内坂晃著「講解説教 ヨブ記」教文館 1999年;ウエブ「びぶろす」00/09、「講解説教 ヨブ記」掲載の桂山侑子解説)。
  E 山本弘問題連絡会 ;ヨブの最終的な悟りを次のように解釈している。神の考えは人間である自分には理解を超えたことなのだから、疑義を挟んではならいのだとヨブは悟ったのである。神はこの真理をヨブに分からせるために試練として災禍を与えたのだが、ヨブはこの試練を乗り越えたので彼を以前にも増して祝福された(HP「山本弘問題連絡会」;「神は沈黙せず」の誤り:山本弘著「神は沈黙せず」の批評)。
   私注; 上のPH管理者と似た解釈は別のウエブ「ヨブ記を読む」(相良教会・南遠教会ブログ)でも述べられている。また、東京見聞30で紹介したE.ジャコブ氏も同様な解釈をしている。神の御心が人知を越えてるということであれば、もう思考停止である。人間の知を排除した態度である。ウエブのミスターフォトン氏のご意見にあるように(ウエブHP「ミスターフォトンの浮世鍋」、神の企み)、一神教は神への絶対的な隷属を強制する。人知を超えた神の業と称して人間を一種の無知状況にして人間の持つ高い能力を過少評価する。神の意思と恩顧がなくては何も出来ない「精神の奴隷状態」に置いてきた。死後の世界に於ける神の審判をちらつかせてあの世に於いてまで人を「重度の神依存症」にさせてしまう。

  信者側に立った見解の最後の例として、つぎに日本の代表的な聖書学者の関根正雄氏と北森嘉蔵氏の解釈を述べる。
  
  F 関根正雄 ;ヨブは、自分が理不尽な災禍を受けたことで、被造物の分際であることを忘れ自分の義を主張し、神の義について異議申し立てをした。これは人間中心の信仰であった。最後にこの人間中心、自分中心の誤りに気付かされて、「主は与え、主は奪う」の真理を理解した。「怒りの神」のうちにある「恵みの神」の愛を見失っていたのだ(関根正雄著「旧約聖書 ヨブ記」)。
  G 北森嘉蔵 ;神は、人間に敵対的に見える面と人間を救済する面との背反する2面を、同一の神の中に持つ。だから、我々人間はルターのことばのように「神に逆らって、神へと逃れる」ことになるのである。
 神は人間への愛を分かりにくいかたちで示す。慈愛と憐れみを怒りの下に隠し、義を不義の下に隠し、その力を弱さの下に、智慧を愚かさの下に隠す。こんな分かりにくい表し仕方をするのは、人間が見て確証を得られなくても神の故に神を信仰するようにするためである(私注;関根氏が言うところの神中心の信仰)。(北森嘉蔵著「聖書百話」)

 3)教外者またはその他の立場はヨブ記に即してどう理解するか

  @ C.G.ユング ;神は迫害者と援助者の背反する2面を併せ持つ存在であること、またある意味では人間以下の者であることをヨブは知ることになった(ユング著「ヨブへの答え」)。
  A E.ジャコブ ;ユダヤ民族が体験した「敵意ある神」を表している(ジャコブ著「旧約聖書」文庫クセジュ)。つまりヨブ記の主題は「主は奪う」の側面が語られているという解釈である。
  B 橋爪大三郎 ;義人は恵まれ、悪人は不運という応報律の神の摂理の破綻が示されている。因果応報での救いを期待するのは、あたかも賄賂を使って神の恵みをものにしようというのに等しい。ヨブ記のメッセージはそんなことは神は許しませんよという教えである(橋爪大三郎著「世界がわかる宗教社会学入門」筑摩書房 2001年)。
  C 色川武大 ;ヨブがあのまま不運の中で死に絶えるというのが本当だろう(色川武大著「私の旧約聖書」)。つまり、神はヨブから奪い放しであったということだ。
  D ウエブHP「イエスの実像を探る」 ;「旧約最大の傑作、ヨブ記の問いかけるものは何か(1)?」の中で以下のようなヨブ記論を述べている。要点の1つは、ヨブ記が隠された申命記律法の批判をしていること。ヨブ記には、作者の意図として、「義なる神」が勝って「憐れみの神」を隅に追いやってきたそれまでの神観への疑問と批判が込められている。2番目の要点は、義の人の不条理な受難や辛苦を神がいつまでも放置しているはずがなく憐れみの神として弱者を救済してくれるだろうという希望をヨブ記は暗に伝えている。これはイエスによる新約の福音につながる望みである。
 しかし、このウエブの発信者はさらに1歩踏み込んで次の問いかけを受信者に向けて発している。
 「イエスの福音が現れて久しいのに、不条理の辛苦は今でも見られることをどう理解したらよいのか、難問であり続ける。」と。
 次回はこの問いに対する私見を述べることにする。 

   



    


 

 

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