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zoom RSS 古事記と創世記16;古事記15:幕末国学者の皇国史観(本居宣長と平田篤胤の天孫統治の史観)

<<   作成日時 : 2012/09/25 14:42   >>

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 1. はじめに 


 幕末の国粋主義運動の思想的推進力となった二人の国学者、本居宣長及び平田篤胤の天孫統治史観に触れる前に、まず始めに天孫統治の日本史をおさらいしてみよう。
 古事記、日本書紀及びその後の実証的な日本史の書籍を基にして、天照大神の御子孫が我が日本の国土に降臨されて国を治め整えるという日本国の天孫統治の歴史をこれまで見てきた。はっきりしたことは、実質的に天孫統治が為された期間はそれ程長くはなかったことである。皇統による統治がその実権に強弱があったものの行われたと言えるのは、初代神武天皇の御代の紀元前660年から第72代後白河帝の院政時代末(紀元1192年)までの1852年間であったと見ていよい。これ以降、徳川将軍家を中心とする幕藩制の武家政治体制が崩壊して第122代明治天皇を君主に戴いて天孫統治が再開される明治政府誕生の1868年までの間は、日本統治の実質的権力は天孫から離れていた。序でに近現代までの天孫統治の歴史を見てみると、明治の御代で復興した天孫統治が明治・大正期及び昭和期前半までのずか77年間為された後、外国と戦って初めて敗れた太平洋戦争(1945年)の戦後に天皇が現人神(アラヒトガミ)から人に生まれ変わられ政治的発言を控える「象徴天皇」となり、皇国が民主国家に変わってから(1946年)は、再び天孫統治は停止し、それが2012年現在で66年間もすでに続いていることになる。

 天孫降臨地の南九州から発して長い東征の果てに、大和の在来勢力を駆逐して、強力政権を打ち立てたとされる初代神武天皇の御代(戦前の皇紀年歴に倣って言うと紀元前660年に当たる)、その後、東海地方や関東、山陰などを平定して制覇範囲を広げて行った第12代景行天皇までの御代、これに続く第15代応神天皇や第21代雄略天皇の御代になると、天孫統治の威勢が朝鮮半島にまで及び、天孫統治の絶頂期(5世紀末)を迎える。その後曲がりなりにも天孫につながる天皇の在す朝廷が日本政治の中心であり続けるが、蘇我氏のような権臣の横暴に悩まされる飛鳥時代を経て、天智天皇(中大兄皇子)・天武天皇(大海人皇子)ご兄弟による中国の律令制を見習った中央集権的政治体制が樹立して、名実ともに天孫統治が行われる白鳳時代を迎える。しかしその後、摂関藤原家が皇室を籠絡して、「この世をば我が世とぞ思ふ」(藤原道長)と傲慢な口を利くように、天皇を敬い立てるももの政治の実際から遠ざけて臣下が実権を握る摂関政治の平安時代が長く続く。中央集権の政治体制が廷臣、貴族の権益追求の具になり、公地公民の班田制の基盤が蚕食・崩壊され、公民つまり人民をなおざりにした政治が長く続き、終いには世の中が末世の様相を示してくる(第45代聖武天皇から第71代後三条天皇までの奈良時代・平安中期ごろ)。
 天孫統治が形骸化してゆくのに対抗して、若くして皇位を退き、自由の利く身になって皇室の家長としての威光をバックに、政治権力を取り戻そうとする院政が白河上皇(第72代白河帝)の世から始まる(1086年)。この後を受けて、権謀術数に長けた気骨ある引退天孫(鳥羽上皇、後白河上皇)が強力な院政を続け、変則なながら天孫統治が甦ったかに見えたが、国政が天皇側の朝廷と上皇側の院政とに分かれる二重政治の混乱とこれに絡む二大武家の勢力争い、自前の強力な戦力を持たず武家勢力を頼る院政機関の不安定な権力基盤などマイナス諸要因から、院政による天孫統治も挫折してゆくことになる。そして、源平合戦に勝利した源氏が日本の政治実権を握って武家政権を樹立して(1192年)、武家政権が天孫に取って代わって実質的に日本の統治を開始してゆくことになる(1192年の鎌倉幕府開闢から室町幕府の実行支配までの時代)。1473年の応仁の乱勃発からは、群雄割拠して覇権を争う戦乱の戦国時代が続き、約1世紀後になって信長、秀吉そして徳川家康の三傑が現れて、天下統一へと時代が動き、武家の力でやっと天下が鎮静した。17世紀に入って徳川氏の安定武家政権が誕生し、以降約300年に亘る太平の世となる。
 鎌倉幕開闢から明治維新直前までの676年間は、天皇すなわち天孫は日本政治の実権、実務からは遠く離れて、内裏に籠もられるお内裏様として禁中に在されたと言うのが天孫統治の実態であった。

 19世紀の幕末になってにわかに、我が国が万世一系の天孫が領ろし召す世界に希なる皇国・神国であると謳う国粋主義思想が、本居とその後継者を自称する平田らによって声高に唱え出されて、ペリー総督率いる米国黒船に代表される異国軍艦の神国日本への来航を契機に勤皇・尊皇運動が燃え盛り、長く続いた徳川武家政権が揺らぎ出し崩壊に至り、約7世紀ぶりに天孫が、「侵し難き崇高の君主」として、再び日本の政治の表舞台に躍進・登場することになったのである。
 私の興味は、幕末の国学の創唱者本居宣長やその熱烈な後継者を自称する平田篤胤が上述したような天孫統治の歴史、とくに鎌倉時代以降の武家に取って代わられて万世一系の天孫による日本統治が長い間為されなかった天孫統治空白を如何ように批評ているのか、或いはこれをどうよに弁解しているのか見ることである。以下に二人の天孫統治史観を通覧し、併せてその天孫統治史観に対する同時代の識者による批評も見てみたい。


 2. 日本史に於ける武家政権に対する本居宣長、平田篤胤御二方の見解

 
 1)本居宣長(1730−1801年)の見解から見ていこう。

 彼はその著書「玉くしげ」(村岡典嗣校訂、岩波文庫1934年初版)において、北条足利を皇統を蔑ろにし奸曲を恣しいままにし武威を振るいたる「逆臣」と決め付けて激しく非難する。ここで北条、足利と彼が呼び捨てにしているのは、源氏嫡流が三代で絶えてその後を受け継いで鎌倉幕府の政治実権を掌握した執権北条氏と、第96代後醍醐天皇の短命に終わった建武の新政のあと、後醍醐帝側から離反して武家政権を再興・樹立した室町幕府の開祖足利氏のことである。
 本居の武家政権非難で不思議なことは、鎌倉幕府の開祖である源頼朝及びその後に続く2代の武家政治に関してお咎めがないことである。源氏3代が朝廷から征夷大将軍職を拝命の上で政治を執り行うという形式を取っていたからと言うことなのだろうか。この論理に倣うなら、北朝の天皇からオーソライズされた室町幕府将軍職の足利氏も免罪ということになる。南朝を正統な皇統とする立場から考えれば、足利将軍はオーソライズされざる覇道の輩と言うことになるのかもしれない。または皇統の正当性が三種の神器による即位ということに求められるという北畠親房流の論からすれば、これを満たしていない北朝天皇からの将軍職拝命は無効であり、室町幕府の政権は皇統を蔑ろにした逆臣の振る舞いだと判断するからなのであろうか。これらの疑問に対する答えなり弁明を本居宣長の「玉くしげ」には見付けられない。
 しかし小生が抱く次の2つの疑問に対しては「玉くしげ」が答えている。一つの疑問は、天をしろしめす神で、宇宙の間に並ぶものない天照大神の御子孫つまり天孫が統治することになっている我が国日本のおいて、なぜ天子様が蔑ろにされるという事態が生じるのか。2番目の疑問は、執権北条時宗が蒙古大軍襲来と言う2度の国難からこの国を救った功績をどう評価するのか、朝廷が唯あわてふためいて実効的な手立てを打てなかったのは対照的に、時の執権時宗は配下の御家人、国人をよく統率してこの大国難によく対処したのではないのか。功績のある彼を天孫に仇する逆臣と呼べるのか。二つの疑問に対する宣長の答えを以下に見る。
 第1の疑問について: 答えて言う、世の中にあらゆる大小の諸々のことは、天地の間に自ずからあることも人の身の上のことも、為すわざも、皆悉く神の御霊によりて、神のお計らいである。しかしそうじて神には尊卑善悪邪正さまざまある故に、世の中の事も吉事善事のみにはあらず悪事凶事も混じりて、国の乱なども折々は起り、−−−正しく道理にあらざることも多い。これらはみな“悪しき神の所為”である。イザナギ之神が黄泉国の穢れを禊いだ折に生まれ出た数多い神々の中には悪しき神も生まれた。その一神の「禍津日神;マガツビノカミ」と言う悪神が盛り荒ぶる時には皇神たち(スメガミ;天皇家の神)の守護力が及ばない邪な事態が生じる。逆臣の北条足利が専横を欲しいままにして武家政治を執り行ったのは、悪神の禍津日神の荒ぶる勢いが天皇家の守護神の威力に勝っていたからだと説明している。
 第2の疑問について: この疑問にたいる本居宣長の答えを求めるとしたら、「玉くしげ」にある彼の次の言葉が参考になる。「総じて武将の政は、彼の北条足利などの如くに大本の朝廷を重んじ奉ることを欠いては、たとえ如何ほどに仁徳を施し、諸士をよくなつけ、万民をよく撫で治めたとしても、私のための智術であって、道に適っていない。」
 北条氏の執権政治や足利将軍による室町幕政に於いて善政の時期があったことは認めるが、これを「私のための智術」と言い捨てている。私利のための政治という本居の論理に倣って考えるならば、兄帝天智天皇亡き後に皇位を継いだ甥御の弘文天皇(大友皇子)を倒して皇位に就いた大海人皇子(第40代天武天皇)の挙兵(壬申の乱)や第49代光仁天皇の遺児たちの間に起こった、権門藤原一門が絡んだ凄まじい皇位争い、時代が下ると第74代鳥羽天皇の二人の異母兄弟(崇徳上皇と後白河天皇)の間で繰りひろげられた、権門藤原家および二大武門の平家と源氏とを巻き込んだ悲惨なる皇位争いや、吉野の南朝と京の北朝とが半世紀以上に亘って争った南北朝動乱という天孫同士の主導権争いにおいて天孫の私心が全くなかったとは言い難いので、これらの天孫たちも同様に責められる点があったと思う。
 上記2点の疑問に対する本居宣長の答えは、私から見て一方を肩入れする偏った認識であり、弁明弁解に思われる。

 次に中世の三大武将、すなわち、天下統一半ばで死した織田信長、天下を統一して戦国の乱世を鎮め短命ながら安定武家政権をものにした豊臣秀吉及び彼の後を受けて強力な幕藩政治体制を樹立して約3世紀の長きに亘って続いた泰平の治世の基礎を築いた徳川家康の三人の武将に関する本居の評価を次ぎに見ることにする。
 北条足利に対する厳しい評価とは対照的に、この三武将はいたく誉め讃えている。
 @ 織田信長と豊臣秀吉については、この2武将が出現して、天孫を蔑ろにして覇権を争う長い間の「乱逆」を鎮め、朝廷を立て直し奉り尊敬し奉って、世の中をようやく平安へと赴かせたと、この2武将を高く評価している。
 A 徳川家康については、彼を「東照神御祖命」と尊称した上で、織田豊臣の後を受けて今の世のように天下がよく治まり、太古にも希なほどに目出度き御代に立ち帰って栄えたことはひとえに東照神御祖命の御勲功、御盛徳によるものであると最上の賛辞を並べている。東照神御祖命、もっと分かり易く言い換えると「東照宮様」が織田豊臣と同様に、衰え果てた朝廷の再興に尽くし、天孫たる天皇を厚く崇敬した点も高く評価している。さらに徳川武家政権の成功を、その治世が天照大神の大いなる御心に適い、天神地神の厚いご加護を受けたからであると解釈している。徳川幕府の政権の性格付けとして、幕府の政権は天照大神のお計らいで朝廷より幕祖家康公の代から日本統治を御委任されたものであり、幕藩体制下にある各大名はその御大政を、一国一郡に分け預かって治めているのであり、領内の民および領国は大名の民、国ではなく、天照大神が徳川将軍家に預け給うた御民、御国(私注;公民公国)なのであるという大政御委任説を述べている。このように幕藩体制による武家政治支配を正当化している。(コメント:宣長は時代の子だなあとつくづく思う。)
 一方で天孫崇敬を謳う尊皇・勤皇思想を述べ、他方では自分もその泰平の恩恵をたっぷりと享受している幕藩体制を「大政御委任論」を持ち出してその肩を持つという妥協的、折衷的と言える論法を展開している。彼の現実妥協的な態度は、彼の次の言説によく表れている、「上の政も下々の行ひ、強いて上古の如くにこれを立直さんとする時は、神の当時の御計らひに逆ひて却って道の旨に適い難し。されば、今の世の国政は今の世の模様に従ひて、今の上の御掟に背かず、これ有り来たるままの形を崩さず、跡を守りて執行ひ給ふがすなわち真の道の趣にして、これ、かの上古神随治め給ひし旨にあたるなり。」。
 しかし彼の唱えた大政御委任説が、幕府の権威が揺らいで明治維新へと時代が移り変わる幕末激動期に於いて、時代を大きく動かす思想的牽引力になって働いたことを忘れてならない。最後の徳川将軍慶喜は、実力で克ち獲った日本の支配権を朝廷に返上するという「大政奉還」の挙に出て、政権を放棄するに至ったのである。

 さて以上見てきた信長、秀吉、家康の三武将に対する本居宣長の高い評価は正しい歴史認識に基づく当を得たものであろうか。
 @ 三武将が天皇から拝命を受けて天下を平定したのであろうか。三武将とも、予め天皇の命を受けて天孫統治の復興に奔走したわけではなく、天孫統治が不能に陥り、国家の統治機能が麻痺して戦乱の続く時代におのれの実力を頼りに天下統一の覇権を目指して奮闘し、或いは志し半ばで倒れ或いは覇権を手中にしたものの短命で滅び、または覇権を盤石にしてそれを長期に亘り維持したのである。朝廷からの拝命は覇道の道筋が付いた時点か、覇道を確たるものにした時点で権威付けの追認として受けたものであると言える。
 A 三武将は尊皇・勤皇の念が篤かったであろうか。
 信長は、確かに皇室御料地や公家領の回復、内裏造営修理を行うなど皇室財政の安定や窮乏公家の救済に尽くしたが、時の(第106代)正親町天皇に譲位を望むとか、官位(太政大臣、関白または征夷大将軍)を勧められても素直に拝命しないなど勤皇の臣下のイメージからは遠い。
 平民出身の秀吉は豊臣の贈姓を喜んで受け、関白職も喜び拝命し、もちろん皇室の財政支援にも熱心であった。
 本居が褒めちぎる家康はどうかというと、尊皇・勤皇は表面だけで、有り体に言うと慇懃無礼の一語に尽きる対朝廷策を採用している。「禁中並公家諸法度」で皇室及び公家、公卿の行動を規制している。朝廷の最大特権とも言うべき官位の授与は幕府の内諾を待って行うとか、大名の官位授与は文官授与とは区別して幕府の専決とするなどで、朝廷の朝議に干渉した。また皇族・公家の勤めは政治に口出しせず専ら学芸に励むことであるとして、天孫統治を停止させる手を打つ。財政的支援の面でも厳しい内容である。天皇御料として僅か年3石高、公家料は総計で7石高であったと言われる(武光誠他監修「地図・年表・図解でみる日本の歴史」下、小学館)。幕府御料の400万石高と比べてあまりに僅少である。朝廷処遇がまさに「慇懃無礼」と言うの実状であった。


 2)平田篤胤(1776−1843年)の見解

 彼の著書「玉たすき」(日本思想大系第50巻「平田篤胤」田原嗣郎編著、岩波書店1973年)を基に篤胤の天孫統治観を見てみよう。彼の出自は宣長とは対照的である。宣長が徳川御三家のうちの二家(尾張藩と紀州藩)に囲まれる幕府の上方拠点とも言うべき地であり、且つ日本神話または神道の聖地伊勢に近い松阪の商人の子として生まれたのに対して、篤胤は辺地出羽(秋田市)の久保田藩上級武士の四男として生まれている。彼は幼い時から侍の資質に乏しかったらしく養子にも出せないと見られて疎んじられて育ち、20才になると無断で秋田を出奔し、江戸に向かった。幸い、江戸在勤の松山藩士の知遇を得て養子に迎えられて、彼の学者としての出世の道が開けることになる。宣長の著書に触れて私淑し、宣長の熱烈なる後継者を自称する。
 
 北条氏の執権政治および足利氏の室町幕府についての評価を見よう。
 @ 篤胤は宣長が触れていなかった源頼朝の幕府開闢に言及しているので、まずこれを先に紹介する。次のように論じている。天孫が政治実権を失なうに至る中世の乱れは、朝廷が平家を滅ばした功に報えて頼朝を総追捕使にすることを勅許したことに始まった。つまりその結果、朝廷に並ぶ政治権勢を生むことになり、武家に国政(私注;天孫が取り仕切ってきた国政)を奪われる種を蒔いたのである。
 篤胤は、また、中世の乱れの根本の発端が皇室内部の皇位争奪戦にあったと指摘して、父帝鳥羽上皇によって強制退位さられた崇徳上皇が父帝崩御を機にして権力奪回の挙兵をしたももの、異母弟である後白河天皇軍勢に完敗し、捕らえられて讃岐に流され、帰京が叶わず、9年後に配所で憤死するという皇室の悲劇(保元の乱;1156年)を挙げている。この皇室の内訌が皇室衰退につながる発端になった理由付けが幽冥界を信じる篤胤らしく変わっている。配流先で恨みを呑んで憤死した崇徳上皇の怨念が働いたのだというのである。
 A さて北条氏の執権政治と足利氏による室町幕府の政治については、宣長同様に朝廷を蔑ろにして逆威を振るったと非難する。
 まず北条氏については、政権奪回を目指し倒幕の挙兵を断行した後鳥羽院を隠岐に流刑にした上(承久の乱;1221年)、配所で生涯を終わらせたのは皇室に対する最も恐ろしき大逆であったと執権北条義時・泰時父子を厳しく非難する。しかし北条執権の中で、善行に努めた第3代執権泰時と蒙古襲来をよく防御した第8代執権時宗は評価している。但し、泰時の善行が世の目を欺くため、また後鳥羽院に対して犯した逆罪を贖うためであったとし、時宗の蒙古軍撃退については神風のお陰であったのだと解釈している。この点で宣長と同様、北条執権政治を大義を知らぬ為政だったと見なしたいようである。
 次に足利氏については、室町幕府開祖「足利尊氏」の名を挙げる際に後醍醐帝から賜った「尊」の字を外して彼の初名であった「足利高氏」の表現を用いている。逆臣には後醍醐帝の初名(尊治)の一字が相応しくないという思いからであろう。足利氏攻撃のもっと鋭い矛先は室町幕府最盛期の第3代将軍足利義満に向けられる。義満を、「自らを日本国王と称し、重き逆罪を犯した」逆臣であると、激しい言葉で非難する(私注;義満が「日本国王」と名乗った真意は、皇位簒奪の僭称と言うよりも、莫大な利益を挙げる明国との正規な交易を求めて、日本国を正式に代表する者として相手に通じ易い「日本国王」の称号を使ったというのことのようである。中央公論社版「日本の歴史」第9巻参照)。そして具体的に3つの罪状を挙げて義満を責める。
 1,北朝(持明院皇統)と南朝(大覚寺皇統)から交代に天皇を出すという「両統迭立」の約束を守らなかったこと。
 2,吉野の御所を守護する武士を仇敵の如く扱ったこと。
 3,南北朝合一して皇統争いをなくしたというが、実質は南朝を北朝に合併して南朝皇統を絶えさせたこと。       (しかし、皇統が統一されたことは天照大神の尊き神量であるとも述べている。)
 篤胤の論評で注目すべきことは、宣長と違って後醍醐天皇による王政復興である建武の新政に言及していることである。3年の短命に終わって、しかも皇室が二つに割れて約半世紀に及ぶ争いをした南北朝動乱の発端になった建武新政の挫折を後醍醐帝の失政によるものだと、辛口の論評をしている。また南北朝正閏問題に関しては、本物の三種の神器を所持した方が正統であり、偽造品を渡して本物を手元に置いていた期間は南朝が正統で、南北朝合一で本物を南朝から譲り受けた北朝側がそれ以降は正統な皇統になると論じている。なかなかクールな論法である。
 B 次に信長、秀吉、家康の3武将についての見解を見よう。
 彼も三武将をべた褒めにしている。信長・秀吉が、朝廷を尊崇を奉り、その衰微を立て直し、世の乱れを治め、叡山根來の悪信徒らを滅没し、その後の凶逆を止めたことは、最大の功績であると、両公を高く評価する。
 信長は、荒廃した皇居を造営し、廷臣の窮迫を救済し、伊勢神宮の復興に努め、廃絶していた朝議を復興した。秀吉は、信長の意を継いで朝廷を厚く尊奉し、諸大名を前に尊皇の範を示した。
 秀吉に関しては、秀吉の朝鮮出兵を我が大皇国、我が皇大朝廷のご威光を天下の諸蕃国(異国)に顕示しようとしたことであり、上代の由縁に叶う道理のある挙であったとその蛮行を擁護する弁を述べている。
 (コメント:篤胤の弁は、かって帝国日本が、大東亜共栄圏の盟主として海外に進出をして、その占領地に鳥居付き神社を建て占領民に日本神道を強制した蛮行を正当化した国粋主義思想に通ずる言葉である。後で詳説するように、国粋主義思想は宣長篤胤らのが古事記の記事を基に主張した思想であり、古事記が日本近現代史に色濃く影響している好例である。)
 徳川の武家政権については、宣長と同様に信長秀吉とは差を付けて「家康公」と呼ばず、「東照神御祖命」(アヅマテル・カミ・オヤ尊)と尊称した上で、家康の功績を並べ立てて、褒めちぎる。以下に篤胤が挙げる東照宮様の御功績を紹介しよう。
 1,世を平穏に治めたこと。
 2,自ら範を以て諸大名に天皇を崇敬することを勧励したこと。
 3,禁中御法度を発令し、神事の復興、奨励を推進したこと。
 (コメント:篤胤の舌鋒は事が徳川幕府のことになると鈍くなり、大甘になる嫌いがある。なんとこの御法度を「最も有難き御文なり」と評している。いわば時代の体制側に偏った批評に陥っている。禁中並公家諸法度が天皇及びその廷臣である公家・貴族を政治から遠ざけて、学芸と祀り事に専念させ、禁中または洛内に閉じこめる、朝廷を統制・規制するものであることを、東西の諸書をよく閲していた多読家の篤胤が見落としているはずがないから、多分意識的に無視した批評を為したのであろう。侍を諦めて郷里を出奔したが武家の養子になって再び武士に戻った篤胤も、宣長同様にやはり時代の子であったのだ。それにしても禁中御法度の捉え方は皇国尊皇を旨とする彼の国粋主義思想とは明らかに矛盾している。)
 徳川幕府の武家政権の性格付け、その政権担当の正当性については宣長と同意見で、大政御委任説に立っている。その論述表現が面白いので紹介する。「東照宮より将軍家代々、天皇の“御手代”(テシロと読む)として江戸の城に坐つつ、諸蕃国を鎮めて天下を治め、万民を撫育する。」とか「神世に天照大御神、皇産霊(ミムスビ)大神が“青人草”(アオヒトクサ;蒼生、人々の意味)を愛しみ給ひ、それを治めさせんが為に、皇孫ニニギ命を天降らせた大御恵を将軍が天皇に代わって為す道理である。」と大仰な言い回しをする。
 また、篤胤は一歩踏み込んで別の角度から徳川武家政権の擁護論を展開している。神事と政事とを分ける二分法を使い、次のように論ずる。神事は天皇が為し参らせる御事で、これが天下を治める政事の本になるのであり、一方、政事は四夷八荒を鎮定し世を治めるという労多い仕事で、(私注;天下を平定した者が)天皇に代わって万民を安撫することであると論じている。

 以上、中世から近世に及ぶ天孫統治空白期を幕末期の二大国学者がどうゆうふうに歴史認識していたかを概観した。日本統治の実権が朝廷、つまり天孫の手から離れていたこと、朝廷が「有りけれども無きが如く衰え給ふ」(「玉たすき」)時期のあったことを認識してはいるが、二方とも日本の主、最高統治者が天照大御神の子孫であられる皇統であるとの見解を固持する。二人のこの天孫統治の見解または堅い信念は古事記の記事とその読み方から由来しているので、次に彼らの古事記理解を見てみることにする。


 3. 本居宣長と平田篤胤の古事記考

 二人とも皇統の始まりおよび天孫統治の根拠を主に古事記上巻(神代)の天地の初め、イザナギ之命とその三貴子(第1子天照大御神、第2子月読命、末子建速須佐之男命)および葦原中国平定とニニギ之命に関する記事に置いている。

 1)宣長の見解:
 国粋主義、攘夷思想につながる、彼の古事記の読み方を「玉くしげ」の中から拾って、彼の肉声に耳を傾けてみよう。
 1,天地は一枚にして隔てなければ、高天原は万国一同に戴く高天原にして、天照大御神はその天をしろしめす御神にして在せば、宇宙の間に並ぶもの無く、永久に天地の限りを遍く照らし在し在して、四海万国この御徳光を蒙らずといふことなく、何れの国とても此大御神のお陰に漏れては一日片時も立つこと能わず、世中に至て尊くありがたきは此大御神なり。
 2,天照大御神の皇孫尊(ニニギノ命)に葦原中国をしろめせとありて、天上よりこの国土に降し奉り給ふ。其時に大御神の勅命に、天壌無窮(天津日嗣=天照大御神の子孫は天地の限り栄える)とありし、此勅命はこれ道の根元大本なり。
 3,皇国(ミクニ)、本朝は四海万国を照させ給ふ天照大御神の御出生ましまし御本国、その皇統のしろしめす御国して万国の元本、大宗(宗家)たる御国になれば、万国共にこの御国を尊み戴き臣服し、四海のうちみなこのまことの道に依り、遵はではかなはぬ理なり。

 2)篤胤の見解:
 当時の新しい洋学に触れている篤胤は、古事記に書かれてある伝説や神々の所業について、今の凡人の目から見ると甚だ不思議で信じがたい内容に思われるかも知れないと正直に危惧している(篤胤著「古道大意」;相良亨編著「日本の名著」第24巻、中央公論社)。しかし同じく「古道大意」において、凡人がそう考えるのは誤りであり、古事記は上代の事実、真実を語り伝えているのだときっぱりと主張する。その上で、宣長と同じく、我が国が世界に比類のない「結構なる有難き御国」であるという神国論を陳述する。その要点は以下の如くである。
 1,万国を開いたのはみな我が国の神代の尊い神々である(私注;世界万国の開祖?)。
 2,その神々が悉く、この御国にお現れになったのである。だから、我が御国が神の御本国であり、神国であると言うのは宇宙普遍の公論である。従って我々身分の低い男女に至るまで、みな神の子孫に違いないとういう理屈になる(私注;神国神民思想または選民思想?)。
 3,我が御国は、天津神(天照大御神)の特別なるお恵みによって神がお産みになられた御国である。天地開闢から今の天皇に至るまで皇統が連綿とお栄えになっており(万世一系の天壌無窮)、万国に並ぶ国が無く、物も為すことも万国に優れている(私注;一種の中華思想?)。
 4,我が国の人は神国である故に、おのずから正しい真の心を備えている。その真の心は大和心、大和魂と古くから申されている(大和精神)。

 コメント: 古事記に記されている神代の内容に関しては、現代の凡人拙者も江戸時代の凡人と同じ感想を抱くので、「今の凡人の目から見れば甚だ不思議で信じがたい内容に思われる」という篤胤のフレイズをそのまま使わして貰って、私のコメントにしたい。宣長と篤胤、お二方の古事記論および彼らの国粋主義思想についても、知性豊かな二人が古事記の記事を真実と考え、それを根拠に斯くなる思想を立てたとは、これまた「甚だ不思議で、信じがたい」というコメントになる。
 最後に、江戸時代の二人の知識人が宣長、篤胤の古事記論及びこれに準拠した国粋主義的思想を痛烈に論難しているので紹介する。

 @ 上田秋成(1734−1809年、国学者、「雨月物語」の作者)
   音韻論と神話観に関する宣長と秋成との間に交わされた論争の書(本居宣長著「呵刈葭」;カガイカ、萱を刈り取ると言う意味の題名)の中で、宣長の「本邦が四海万国を照らしまします天照大御神の生まれませる御国、よって万邦悉く吾国の恩光を被らぬはない。故に貢ぎを奉じて朝来されべし」との教えに対して、上田秋成は次のように反論する。
 そんな言説に服す国が一国もあるはずが無いばかりか、何を根拠にそんな主張するのかと不審がるだろうし、これに答えて太古の伝説(私注;古事記のこと)を以て示したところで、そんな伝説なら自分の国にもあって、かの日月は自国の太古から現れでていると反駁するだろうと。古事記を持ち出したところでそれは縁者の証拠のようなものであり、説得力がないのだと本居を論破する。
 A 山片蟠桃(1784−1821年、町人学者、名書「夢の代」を著した先駆的啓蒙思想家)
   宣長の主張「伊勢大宮の祭神が日輪(天照大御神)にましますから、皇国人(日本人)は言うまでもなく高麗、唐土、天竺、その他天地に在るあらゆる国々の王及び国民までが限りなき御徳に感謝奉るべき道理である。」に対して、山片は次のように批判する(「夢の代;神代」)。天照大神は日本のみをふみならし給うのは疑いないのだから、日本を照らし給うと言うべきであるのだ。どうして万国を照らし給うというのか、これは全て神学者の私言に過ぎない。日輪をとって言うのは日本人に限らず、仏教家の崇める大日如来も太陽のことを言っている。みなそれぞれの国人の私言である。

 秋成、蟠桃は二人とも、現実重視の合理的精神が強い商都大阪で活躍した人であって、大阪人の気風を受けてか、極めてクールな論評を行っている。万国を遍く照らす太陽神の天照大御神との特別なる結びつきを前提に、その大御神の御子孫から始まる万世一系の皇統のしろしめす天壌無窮の、世界に比類なき神国・皇国という宣長、篤胤の国粋主義的思想を、大阪のこの二人は類似の神話や思想が他国にも有ることを挙げて、我々現代人にもよく分かるように相対化して見せる。唯一絶対神を掲げて今でもこれを固く信じ、現代の国際政治の実際に甚大なる影響を与え続けている中東発祥の一神教に対しても立派に通用する宗教論を、すでに江戸時代においてこの二人の町人学者が展開していることに驚きを覚える。


 参考文献・資料    

 本居宣長著「玉くしげ」;村岡典嗣校訂「玉くしげ」、岩波書店1934年
 本居宣長著「呵刈葭」
 平田篤胤著「玉たすき」;田原嗣郎他編著「日本思想大系」第50巻(平田篤胤、伴信友、大国隆正)、
        岩波書店1973年
 平田篤胤著「古道大意」;相良亨編著「日本の名著」第24巻(平田篤胤、佐藤信淵、鈴木雅之)、
        中央公論社1971年
 山片蟠桃著「夢の代」;源了圓編著「日本の名著」第23巻(山片蟠桃、海保清陵)、中央公論社1971年

 その他;
 中央公論社版「日本の歴史」シリーズ
 高森明勅監修「歴代天皇事典」PHP文庫2011年
 武光誠、大石学、小林英夫監修「地図・年表・図解でみる日本の歴史」(下)、小学館、2012年
 天照大神に関する宣長・秋成の論争(日神論争)は下記資料を参考にした。
  1,辻達也・朝尾直弘編集「日本の近世」第13巻(儒学、国学、洋学)、中央公論社1993年
  2,WEB;ユーディット.アロカイ(ハンブルク大学)氏の論文「上田秋成と大阪の精神」
    WEB;上田秋成vs本居宣長の「天皇論争」@(投稿者;ジャック・どんどん) 
          



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古事記と創世記16;古事記15:幕末国学者の皇国史観(本居宣長と平田篤胤の天孫統治の史観) Reisetu/BIGLOBEウェブリブログ
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