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zoom RSS  シベリア慰霊訪問記 2 故村山常雄氏の偉業;シベリア抑留死亡者の漢字名の名簿作成

<<   作成日時 : 2016/06/15 19:02   >>

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 私の長兄もシベリアで命を落とした強制抑留者の一人である。終戦の年の晩秋、満州から極寒のシベリアへ強制抑留され、翌年1月に落命した。享年20歳である。過酷な強制労働と、私と同じく寒がりでのためシベリアの極寒に耐ええず短い生涯を閉じた。当時私は9歳であった。
 戦後しばらくは兄の消息がなく、家族ははかない望みを持ち続けて郵便屋が来ると兄からの便りと思い、その度失望していたそうである。シベリアでの長兄の消息が分かったのはずっと後で、全くの偶然のきっかけであった。農家の子として役割の庭掃除をしていた時に、たまたま家の前を通り過ぎた浜通り人が私の顔を目にして、同じ収容所に入っていた榮さんの実家ではないこと思い、訪ね寄ってくれたことから兄のシベリアでの様子とそれまでは生死すら分からなかった兄の死が初めて判明した。しかし、死亡年月日や埋葬地等に関する正確なことは、帰国後の忙しい生活で記憶が薄れているのか、辛い過去に触れたくないのか詳しくは聞けなかった様で分からないままであった。当のその浜通りの方は今は亡き人になっており、小生は聞き出せない。ところが、ここに光明が射してきた。それが表題の「シベリア抑留中死亡者の名簿」であった。
 編集作成者の故村山常雄氏はご自身もシベリア抑留体験者であり、帰国後新潟県の公立中学校教員をされ、定年退職後のライフワークとして抑留で犠牲になった方々の名簿をロシア政府が日本政府に送り届けてきたロシア語表示の抑留死亡者名簿(いわゆる「ゴルバチョフ名簿」1991年)にある一人一人について根気強く漢字名に書き返ると言う、翻訳にも近い難業をなさって、これをウェブで公表された。
 私の長兄の「キクチ サカエ」は、菊池榮と記され、チタ州第25収容所第12支部、生年1925、階層兵、死亡年月日1946/1/25、埋葬地コードB1-138( 北緯50.33経度116.18)と詳しく記されていた。故村山氏の偉業に頭が下がる思いである。彼はここまで調べ上げるために退職後の住居を東京に移して、厚生省など関係機関に足を運んだそうである。彼の名簿作りは平成18年度吉川英治文化賞の受賞となった。ウェブ(http//Yokuryu. huu. cc/)でも見れるし、本にもなったている(株式会社プロスパー企画発行)。または国立国会図書館で観閲できる。わたしは国会図書館で調べた。

 長兄の榮兄さんが20歳でなくなってから70年経つ、私はあれから60年の命に恵まれて傘寿を迎えることが出来た。シベリア慰霊訪問団のことを耳にして、元気のあるうちに長兄の慰霊に行こうと決意して主催する全国強制抑留者協会(一般財団法人、会長はご自身も抑留体験者の相沢英之氏)に連絡して、昨年慰霊訪問を実現することが出来た。8月18日から同月25日までの8日間のシベリア辺境地巡りの旅をしてきた見聞や感想、思索を「シベリア紀行」と銘打ちまとめることにした。紀行の本文に移る前に二つのことを述べたい。

  榮兄さんの思い出:
 
 長兄の記憶は今も鮮明に残っている。勤労動員先の川崎市から送ってくれた、腰を落として撃つ狙撃兵のセルロイド製人形を思い出す。ハンドルを回すとカタカタと音がした。祖母が兄に送るドーナッツ作りの時に真ん中を繰り抜いた際にポトリと転がり落ちてくる「おこぼれ」を祖母の脇で待ち構えていたものである。祖母が造るドーナッツは子供心に天下一品であった。川崎の軍事工場で働いていた同郷の近所の人から後で聞いたが、当時の郵送事情からせっかくのドーナッツが手元に届いた時は腐食が進んでいて食べられない様であったが兄は鼻を抓みながら食べていたそうである。そんな優しい兄は、上述したようにその容貌は私によく似ていたようである。似ているのはマンガ書きもそうだったらしい。私も小学校時代、正しくは「国民学校」(戦時中にこう改名されていた)時代に専制の話はあまり聞かずノートにせっせといたずら書きをしていた。小学時代の小生のノートを目にしたことのある甥が「おじちゃんのノートはマンガばかり描かれていた。」と述べたことがあった。また還暦の同級会で「レイジさんが可哀そうだった、いつも立たされていたものア」と呟かれた。
 川崎から現地徴兵されてた時、祖母が自家製の繭から紡いだ絹糸で緑色の軍服を作っていたのが鮮明に思い出される。

 故村山氏のロシア語表記の抑留死亡名の漢字名への変換、翻訳の苦労について:

 抑留死亡者の氏名はソ連軍が収容日本人から聞き取り調査したのをロシア語で表記したのが原資料であるが、これをそのままカタカナに書き換えてもロシア語文字故に死亡者の氏名が正確な表記にならない。故村山氏が挙げている例を以下に幾つか紹介しよう。
 
 ヴォダ・エヨシモーーーー正しくはワダ・ヨシミで、和田義美。同じように、
 コウニヤ・シュラオーーーコウダ・ミサオで、幸田操
 ホタカ・テレネダーーーーハマノ・テルタロウで、浜野照太郎
  因みにパスポートの私の氏名は、ロシア語表示がアルファベットに直して表すと「KiKuTi Rzidi」であった。これで苗字は読めても名前の方は全く漢字に変換するのは至難のことである。

 故村山氏の漢字名への正しい書き換えがいかに大変な作業であったかをご理解いただけると思う。

 

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