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zoom RSS  シベリア慰霊訪問記 6.  ザバイカル地方の最初の慰霊訪問先ブカチャーチャー(追補) 

<<   作成日時 : 2016/07/05 15:20   >>

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 1) 旧炭鉱村のブカチャーチャー町(21日)

 @) ホテルでタイムトンネル体験
 昨夜(20日)、深夜到着し宿泊したホテルは、チュルニシェフスク市の唯一のホテルであり、昨年開業したそうだが、ホード、ソフトの両面で未熟さが素人目にもわかる「まずい」ホテルであった。洗面所にカップなし、トイレにはトイレットペーパ―の備えなしで言われて初めて備える始末。室内スリッパーは紙製の薄物とくる。パジャマなんてものもない(これは添乗員に予めに言われ、シベリアのホテルは何処もそうだとのこと)。部屋の広さはまあまで、ベットもしっかりしている。しかし、女性メンバーのある部屋には浴室がなくてすぐ別の部屋に取り替えてもらった。私と弘前氏の部屋には浴室があったが、戸のロック受けの穴が錐で急措置したのか、受け穴が片寄っていた。フロントは2階の狭い踊り場に面してある。さらに驚いたの朝食の時だ、食堂の中にハエが一匹飛んでいる!隅に目をやるとハエ取り紙がぶらさがっていた。もう、昔の日本にタイムトンネルした驚きである。しかし今年はまだ恵まれていると、シベリア慰霊訪問でこの地に一泊したメンバーが言っていた。宿泊施設がないので地元の学校に泊まらしてもらったそうである。驚きよも車中の長旅の疲れで直ぐ眠りに入った。
 翌朝、早めに起きて朝のストレッチ体操をした。しばらくすると男女の通勤者が急ぎ足で通り過ぎる。通勤者のと言い難いなりの中年男が近づいてきて、カラテ、ゴクドウ、フジサンと片語日本語で私に呼びかけてくる。一応避けることせずに表情だけで応じた。通りすがりの通勤男性は彼の声掛けを無視して通り過ぎた。はーはん、彼は昨夜の酔客が落とした小銭集めをしている「早起き三文得」氏だと察した。
 彼から離れて、ホテル周辺を探訪してみた。ホテルの道路向かいにマンション風の建物が幾つか建ち並んでいる。その向こうに跨線橋があって駅舎と関連施設に渡れるようになていたので、建物は鉄道員の宿舎と分かった。ホテルの隣には職業安定所のような役所とかその他の官庁があり、朝に速足で通り行く通勤者を多く見かけた。鐡道宿舎からはマイカーで通勤する者や急ぎ足で出勤する人々が目に入る。人口10万都市のこの町は、どうも鉄道関係の重要拠点と見受けられた。所々に穴ぼこがある舗装路のメインストリートを辺りが明るくなった朝だと言うのに、どの車もヘットライトを点灯して走っている。ロシア通の岩岡氏の解説によると、ロシアでは交通ルールが厳しいとのことだ。そういえば思い出す。深夜チェルニシェフスク駅に下車し、駅近くの踏切でバスが停止した。列車が通り過ぎると、車の下のバーが下がって渡ることが出来た。自動車停止のストッパ自動装置が施設されていると言うことであった。こうでもしないとロシア人ドライバーはルール無視の乱暴運転となってとても危ないからだと、岩岡氏が説明してくれた。古今混在の地,シベリアか。
 A) ブカチャーチャー
 チエル二シェフスク市から約50km離れた平原奥地にある旧炭鉱のあるブカチャーチャー町へ向かう。舗装されているものの穴ぼこの多い道の続く、まあ悪路に近い真っ直ぐに伸びるを進んだ。しかしこんな道路を若い男女のが乗った三輪駆動のオートバイが何度か、土煙を残して疾走して行く。かっては石炭を運んだ狭軌鉄道が我々の進行する道路にほぼ並行に通っている。緩やかな起伏を描いて広がる人家が全く見られぬ草原地帯をしばらく進むと目的地の家並みが遠望される町境に至る。鶴嘴を象った大きな町名看板のある所に現町長さんと老身の前町長さんが出迎えていた。現女性町長さんと再訪で顔見知りになっている川越さんと神戸さんは女性の現町長と熱い抱擁の挨拶を交わしていた。市川団長は顔見知りの前町長と再会の挨拶を交わしていた。初顔組のメンバーは傍観するだけ。
 この旧炭鉱町は、石炭が主要エネルギー源であった時代までは大いに栄えていたようだ。今の街で目に入る民家はみすぼらしいがこれに不釣り合いの感じで次に訪れることになった町立幼稚園の立派なこと、また町立学校の白堊の建物から察しられた。しかし動力源の変化で過去の栄光が消えている印象を抱いた。
 この旧炭鉱には4,665名もの日本人が抑留となり、過酷な採炭等の強制労働で約3割に当たる1,476名の尊い命が失われたと記録されている。とくに気の毒だったことは、旧満州国の新京特別市の同徳台という所にあった満州国陸軍官学校(士官学校に当たる)最後の卒業生第7期生232名がこの地獄の炭鉱で強制労働に従事し、うち58名が若い命を失ったことである(自身も第7期生で、東京ヤゴダ会会員である松岡忠雄氏のブログ『4.2松岡忠雄』より)。このブカチャーチャーの炭鉱で犠牲になった日本人抑留者の総数は、同行メンバーの名古屋青年が元村長から聞いたことでは、約1800人だったということである。
 ヤゴダ会は、若い命を犠牲にされた第7期生ご遺族や松岡氏の様に帰還できたその同期生らが中心となって犠牲者の御霊の弔い、この悲劇の後世への語り伝えを為そうと戦後5年、つまり昭和25年から始動したそうである。
昭和31年に最後の戦犯グループであった抑留者が帰還したが、その復員者の中に旧満鉄調査部本部で通訳をしていたという方がおり、彼の帰国祝賀会に関係者多数が参席した時点からヤゴダ会結成は急テンポに展開したとの事である。会名や目的および会長選出(初代会長は元通訳の小田切利馬氏)と決まった(女性メンバーの鎌倉さん亡父である杉村俊一氏のWeb、ロシアとの関係・草創期のヤゴダ会・チタ建碑・慰霊墓参より)。会の名前のヤゴダはシベリアの野山にに生えている赤い実を付けた棘のある野草である。22日にコクイに行く道で一時休止した道路端の薮中にそのヤゴダを見つけた。実は食用できるらしい。食料不足を補うために抑留者が食べたのであろう。
 B) 対照的な二つの慰霊碑
 鉄柵に囲まれたてあり、中の雑草がきれいに刈り取られていた。青ペンキに塗り立てられたばかりの鉄柵の外で我々のするのを見ている例の二人の町の有力者が見守る中、慰霊の儀を執り行った。まず各自が慰霊碑の前で黙祷を捧げた。川越さんは美男だった亡父の遺影を石碑の前にかけ、深く頭を垂れて黙祷していた。目に光るものが流れていた。続いて団長の悼辞と神戸さんによる読経と合唱と進む。私は「バイカル湖のほとり」の自作替え歌を声高らかに朗誦した。
 寂しことに、慰霊碑の銘板がすっかり剥ぎ取られていた。鋲穴4か所だけになっているのを見るのは大変悲しかった。皆が慰霊の準備等に掛かっている間を利用して、私は260k余も遙かに遠くに在る榮兄さんの眠る南西方角に向かって黙祷して亡兄の冥福を祈った。また、今は亡き遺族、両親や祖母、次兄と姉の遺影写真をパネルに収めたものを南西方角に掲げて、長兄があちらの方角に永眠しているのだよと呟いた。長兄が埋葬されているとされるボルジャ近くのハダブラクに赴いての慰霊が叶わなかったが、日本からシベリアに向かっての慰霊よりは確かな弔いを出来たと思っている。
 次に向かったのは草が生い茂っている小山のような高台にある慰霊石碑である。山道を草を分けながらの登った所に在った。ここも鉄柵で囲まれているが中の雑草は伸び放題だ、鉄柵のペンキは古くなっている。同行した女性町長さんはどうも手が回らなくてとすまなそうに弁解した。実は後述するように町立幼稚園開園50周年記念式典が本日挙行と多忙だったのであった。「手が回らなかった」は本当であったのだ。幸い、石碑の銘板は残っていた。銘盤が岩石に食い込むように取り付けているため、剥がそうにも出来なかったと推察された。銘版のあちこちに凹みが見られた。銘板には漢字で鎮魂と記され、その下にはロシア語(亡魂に捧ぐ)が記されていた。で記されていた。このロシア語文言も石碑を建立した日本人の手になるものと思われる。

 C) 思わぬ招待ー幼稚園開園50周年記念式典と祝賀会への突然の招待
 招待は突然であった。園児たちも出演する祈念式典に是非是非参席してい欲しい、またその後に続く祝賀会にも出て下さいと乞われ、団長の決断で招待を受けることにした。予定が大部狂うことになるがみんなも同意して、小山の傾斜地にある開園50年になる町立幼稚園へ赴いた。
 園舎に入るとまず手洗いを勧められる。はーはん、外来者の持ち込むかもしれない病原菌から免疫力の弱い園児たちを守るためだなと、20年前に国立大教育学部付属幼稚園の兼任園長をした小生にはすぐ分かった。式典に心落ち着けて参席出来る様にとまずトイレ借用をすることにしたが、どうぞと案内されたのは室内にあらず、屋外であった。しかも男性はその辺の物陰でということ、女性メンバーには古びた堀立て小屋を指さされる始末であった。園庭の脇に汲み取りのバキューブカーが止まっていた。かっての日本の田舎のトイレである。
 式典会場の園内講堂には保護者、園児ら(女児14名と男児4名の計18名全員)、地元の来賓がすでに着席していた。我々は幼児用椅子が用意されている最前列へ案内された。保護者は最後尾で立っている。式典はまず園児らの一生懸命に覚えたであろう挨拶から始まり、続いて彼らの歌、合唱と寸劇がある。その後に老女性園長さんの挨拶や功労者への記念品贈呈、続いて現町長と前町長からの祝辞、保護者代表の挨拶と保護者や教職員による歌と寸劇となる。幼児用椅子に座り続けるのが我慢ならず、私は途中から最後尾に移り、以後立って参観した。
 やっと式典が終わると今度は別室での祝賀会と来る。私は園内の部屋の様子などを観て遅れて宴会会場へと移ろうとしたら、大変珍事、ハプニングが待ち構えていた。祝賀会場へ移る中間にある降園控室で帰り支度をしている保護者から、娘と一緒に写真に収まって欲しいと懇願された。元幼稚園長は拒むわけにいかず、結局2組のかわいらし白系ロシア乙女と一緒の写真に収まる幸運に恵まれた(一組は三姉妹であった)。私のデジカメにも収めた。このハプニングの事の起こりは、降園控室で保護者親子を見送りしていた女性教職員の一人が私と一緒の写真に是非撮りたいせがまれたことである。わしが快く応じたのを見た保護者が勇を得て娘との写真を迫ったのであろう。 この珍事を後で岩岡氏に話したら、彼は「ロシア人はインテリが好きなんだよ。」と評した。私は思う、この町は鉄道が通っていると言え、平原の最奥地にある孤立した町であり、炭鉱閉山後は外からの来客が滅多にしかないので、外部の人間とくに異国から来客はまことに珍しく、”稀れ人”であり、この珍事は稀れびと効果の為せる業であったのだ。祝賀会場に移り去る最後のマレビトは、彼らにとっては、おめかしをして臨んだ会場で遠来の珍客と写真に収まる一生一代の絶好のチャンスであったのであろう。

   追補(H28・7・26)
  
 子供たちは可愛い。国立通大学付属幼稚園の兼任園長時代の事を思い出す。
 幼稚園には週3,4日の出勤で、しかも人事や予算のこと以外に用事のない日々であったから、登園(これは園児登園に使う言葉)すると廊下を回りながら部屋の中や園庭での彼らの活動を観るだけで一日が終わることが多かった。園児たちの観察の幾つかのエピソードを紹介する。
 中年クラスの男児が登園時に玄関でなかなか母親から離れない。いわば母子分離が難しそうだった。教室に入っても他の子らが園庭に出て遊び始めているのに後ろの壁により一人ぽつんと立っている。みんな外で遊んでいるよと、言葉を掛けるとその子曰く、「今、ボゥートしている時間だ。」と。数分後に教室を覗くと彼の姿がなく、園庭で他の子らと遊んでいた。自分なりの生活スタイル、活動ペースなるものをすでに持っているのだなと感心した。次の女児の例も幼稚園児が自分なりの生活活動のスタイルなるものを築いていると思わせるエピソードである。その女の子は、私が廊下から教室の子供たちを見ていると、ソーット後ろに来て後ろ手にしている小生のその手をソット軽く握る。しばらくすると手を離し、立ち去って友達と遊び始める。これが彼女の何時ものパータンであった。母親が民間放送のアナウンサーをしていて、どうもおばぁさん子であったようだ。私は幼稚園のおじぃちゃんであったのかと思う。
 3番目の例、日本海側にある地方大学であったから冬季は雪が深い。ある降雪のあった日に2人の男子園児が園庭で盛んに雪を掘り分けていた。何か探し物でもしているのかと尋ねたら、彼らは「鶴さんが首まで埋まっちってかわいそうだから首が出るようにしている。」と顔を上げて答えた。優しい子らだと感心した。
 最後に、園児たちの夏休み中の思い出を綴った「つぶやき」(冊子)の記事から園児らの詩人顔負けの表現を紹介しよう。
      水洗トイレに浮かんでいるウンコを表して、「死んだウンコ」という。
      海水が耳に入ったことを表現して、「うーん、耳に海が入った!」と、仏詩人のジャン・コクトー並の詩的        表現をしている。(コクトーの「私の耳は貝の殻 海の響きをなつかしむ」)
また、彼らは歴史感覚に拘らない、または欠如のことを口にする。
      独身時代の母親の写真を見せられて、「ねぇ、私この時どこにいたの??」とつぶやく。
 子供は本当に可愛い。子供はみんなの宝だ、社会の宝だ。最近、心を痛めるようなニュースを耳にする。保育所や幼稚園の子供らの声が騒音だと近くの住民が訴訟まで起こすとのことだ。子らの遊び興ずる声や音声を「騒音」途しか認識できない心貧しい抗議であると思う。あまりにぎすぎすした偏狭な心理である。約30年前のことであるが、高知県に在職中に聞いた地元民放ラジオの話を思い出す。高知県の山間部ではこの時すでに過疎化の深刻さが問題になっていた。民放記者が超過疎化の山村の老人に、若者が村を出て行き老人ばかりになっていろいろ困ることや不便なことが多いでしょうが一番困ることは何ですかと尋ねると、その老人は次の様に答えた。
 「消防隊が組めないとか、農作業や水路管理などの共同作業がやりにくいことがあるが何よりも堪えることは子供の声、姿が消えてしまっていることだ。この世が終わりになるのかと思うとやりきれなくなる。耐え難い。」
この言葉は今でも私の記憶に深く刻まれている。人間社会が消えうせるのではないかという恐怖感を訴えている叫びであり悲鳴である。子供たちをもっともっと大切にしよう、自分の子を虐待死亡させるなどと言う大人は度の湯女事情があるにせよ許し難たいし、そのような大人が現れぬように支援態勢を国が自治体が手を打ってほしい。下校の交通安全ボランティアは大い評価に値することである。子供はみんなの子供だと言う意識を共有しよう。こう努めることが、日本の事、日本民族の存続と繁栄を願いながら異国の地に果てた抑留犠牲者の御霊に報えることであると思う。                                                                                                 
 
 D) 抑留死亡者がブカチャーチャーに残した偉大ななる遺産
 思わない熱い招待を受けて予定の大幅変更となったが園児たちには大変な贈物になったとのであろう。残っている予定は、遠くからでも遠望された小山のようなボタ山と抑留者が建造して未だに残っている火力発電所の廃墟の見物であった。先に丘斜面にある発電所廃棄を訪れる。日本人の造った火力発電所はあまりに頑丈な造りで、全部を解体できぬと言うことから未だに巨大なる廃墟として丘に残り続けて遠くからでも眺められる町のシンボルであると私は見た。廃墟の近くで放牧牛が草をゆったりと食いんでいた。直ぐ近くに医師官舎跡と、少し登った先には抑留者が入っていた収容所跡があった。いずれも抑留者が造った建物である。抑留者に住居は屋根が崩れ落ちてなく土台と壁の一部とが残っているだけで、その姿は抑留者の悲劇を語るが如きであった。
 次に、丘を降ってバタ山の見学に行く。降って平地に行くと「レーニン広場」が目に入った。その一画に二階建ての立派な大きな建物がある。町内で一番の建物に見える。正面に掲げてある大きな看板にロシア後でシァフチョール(炭鉱夫)書かれており、炭鉱労働者会館として建造されたものであり、この建物も日本抑留者の手になるものとのことだった。スターリンの死後にスターリン批判の激しい時代の浪がこの僻地にある旧炭鉱村にも押し寄せて来て、忌まわしいスターリン時代の遺物の破壊が為された。しかし、日本人が残したこの白亜の殿堂を壊すなと地元民の激しい抵抗があって残存されたそうである(幼稚園の祝賀会に出席していた旧村時代の元村長で、大変な親日家のワシリ-ガイ氏の言である)。現在は炭鉱労働者会館は公会堂として町民に愛用される町の自慢の建物とのこと。建物の脇にあるレーニン銅像と日本人建造の白亜の殿堂は良く管理が行き届いている印象であった。
 ボタ山見学は最後になった。この町に来る際、小山かと見紛うように遠望されていた。赤茶色の地肌が見え、芝草のような植物が一部を覆っている。夕陽を受けて深い影が地肌に幾条にも見える。町はこのボタ山を公園地扱いにして管理しているようであった。シベリアの空に聳えるこのボタ山は、犠牲になあって無念の死を遂げた抑留死亡者の陵墓であると思った。そして、あの不当無法なる抑留、強制労働を後々まで被害者の日本人および加害国ロシアの心ある人々が語り継ぐ悲劇のシンボルである。東シベリアの平原奥深くにある旧炭鉱のブカチャーチャーには、この辺境地でと尊い命を落とされた抑留犠牲者を葬る聖なる陵墓ボタ山と、この地にロシア人が感服賞賛する日本人抑留者が建造した建物と言う二つの偉大なる遺産が残されているのだと実感した。
 鶴嘴型の建つ町境で見送りの現町長、前町長にして町議会議長と元村長御三方の見送りを受けて帰路に就いた。道路事情に詳しいスルーチェゲイ運転手が近道を通り、野道のような道を進む。そのうち前輪がパンクした。悪路を無理したからだろう、彼は手伝いの申し入れを断って汗だくで一人で何とか新タイヤに取り替えた。すぐ傍を清水が流れている。若い地元の男女が車から降りてその清水を掬って旨そうに飲んだ。腹痛を起こすから生水厳禁
との添乗員の忠告されていたので、飲みたい気持ちを抑えた。納得しかねる我々に、岩岡氏が説明した、地元のロシア人は生水を飲み慣れて免疫があるんだと。半月がくっきりと夕空に浮かぶ頃に、こちらの専用バスがガソリン欠になり、GSを探す。やっと見つけて給油できた。GSの店内売店で100ルーブルのコカコーラ小瓶を買う。円にして200円ほどの値段、同じ小瓶なら埼玉のスーパーでは今は85円で手に入る。高い!暗くなってやっとホテルに着いた。渋い顔で待つ通い給仕の女性の給仕する遅い夕食を摂った。 
 E) 旧ブカチャーチャー炭鉱の再生への道;そのモデル、福島県いわき市の旧常磐炭鉱の例
 かっては炭鉱地として栄えていたであろう面影は今のブカチャーチャ―に伺うことが出来ない。民家は古びた板張の造りの家々だけ、立派な建物と言えば小中学校とあの幼稚園など公共物と、前述した日本人の建造になる白亜の公会堂だけと見受けられた。家々の周りは例外なく板塀か高い板柵で囲い込まれている。此度の最期に訪れた山村のジプへ-ゲンでも家々が板柵で囲まれていた。これ夜間出没する狼の侵入防止のためだそうである。子供が狼に食いちぎられたという事件が最近あったとのことである。若者が星空のもとで愛を囁き交わすロマンはシベリアの田舎では出来ぬ夢なのか。かっての栄華が去り、人口も減っているブカチャーチャーの再興の道はないのだろうか、定年退職後に5年ほど勤めた第二の職場所在地であったいわき市、かって日本の主要動力源であった石炭を豊富に産出していた旧常磐炭鉱町も動力源の変化で急激に凋落し衰退していった。商客宿は次々潰れ、町自慢の百貨店は閉店、華やかな花街は廃れて艶やかな芸者の姿が消えた。昔からの温泉街の客足も減った。威勢の良かった炭鉱町は往時の栄華をすっかりと失った。
 ところが、ここで生まれた逆転の発想、思考転換が炭鉱町を蘇らせ、福島県浜通りの最大の都市である今の「いわき市」に変貌、再興させたのである。逆転発想と言うのは、それまでは採鉱の最大の邪魔ものであった坑内に豊かに湧出する温水を救いの手に利用すると言う逆転思想を採用した。豊かに無尽蔵に湧き出る温水を利用して大規模な温泉リゾート開設を考えTのだ。炭鉱夫の娘さんたちが踊りを習い、ハワイアンダンスの踊り手に変貌し、若い娘さんたちの大活躍で、序盤ハワイアンを支えた。その頃東北地方の新婚さんはこの常磐ハワイアンを格安で楽しめる新婚旅行先にした。すぐ上の小生の兄貴夫妻もここに新婚旅行をしたと記憶している。時は団塊の時世で、いわき市は商売大繁盛と榮え、公式戦の行える野球場はできる、競輪場が出来る,、常磐線駅前が整備される、小名浜のすし屋が繁盛する、昔からの湯元温泉も客足が増えるとなった。教育機関の面でも、高専ができる、私立大学が2校も開設されると福島県から隣の茨城県北にまたがる太平洋沿岸各地から学生がお集まって来る地方中都市に生まれ変わった。
 常磐ハワイアンはその後、スパリゾート・ハワイアンと新改造されて呼び物のフラダンスショ―が加わり、現在は全国版の知名度を上げるに至る。温泉良し、温水大プールあり、フラダンス等のショーを楽しめる、おまけに割安料金で、今や東京からもバスで団体客がやって来る。また小名浜には特色ある水族館営業され、湯元温泉近くの丘には競馬が傷を癒すため、疲れを癒すための中央競馬協会(JRA)所属の「馬の温泉」まで見学できる。いわきに詳しいのは、小生の第二の職場が市内に新設された私大であり、5年間この地に暮らし、スパリゾート・ハワイアンや湯元温泉で楽しんだからである。
 しかし、あの1日本大震災、大津波で浜通りが大打撃を受けた。これに福島原発の放射線漏れの被害が追い撃ちを掛けた。観光客が激減、私立大学の志望者も激変、放射能風評被害が尾を引いてのy産物等が売れないと、いわき市を含めて浜通りは勢いを失速させた。しかし、回復の兆しが見え始めている。たとえば、いわき市小名浜生まれの名指揮者コバケンこと小林研一郎氏がNHKとの縁から、今や年一度のNHK定期演奏会が開かれるようになった。市民会館を音楽大ホールのある建物に改造して受け入れ態勢を作った。放射能風評をうまく除き去り、小名浜に陸揚げされるカツオや夏のさんまのあの美味を首都圏に売り出さば市の財政が豊かになって復興への歩みが一層進むと確信する。
 日本の東北地方の旧炭鉱町の発想転換による再生の事例を参考にして、ブカチャーチャーも柔軟なる逆転発想を以て再生への道を探って欲しいものである。地下に未だに豊富な石炭の動力源または他の用途への活用法を検討、またあのなだらかに起伏する芝生のような草原の活用法がないものだろうか、シベリア鉄道とつながる狭軌鉄道が今は廃線であるがこれの運用開始をすればアクセス良しで、芝生草原を広大なる世界的なゴルフ場に活用がすることが出来ないであろう。関東の首都圏よりでもやく1,000もボーリングすれば温泉が湧き出るから、ゴルフ場の近くに温泉を作ると世界一番のゴルフ場にには世界各地から客が来るかもしれない。鉱泉なら石炭で温めればいい。日本からも大勢来るとなれば、この地で眠る抑留犠牲者の皆様もきっと喜ばれることでしょう。
 
  

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