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zoom RSS  シベリア慰霊訪問記 7.ザバイカル地方の慰霊 その2;コクイ、カリムカヤ、ジブヘーゲン

<<   作成日時 : 2016/07/05 15:24   >>

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 @) コクイとカリムカヤ(22日)
 今日はチェルニシェフスクからコクイとカリムカヤの慰霊訪問先2か所の約240kmと、宿泊先のチタ市までの25kmという長駆のドライブになる。ホテルから朝食の弁当を用意してもらっての早発ちとなった。弁当は日本の感覚では考えられぬ代物で、キュウリを半分に切ったのがサラダ、その他の食べ物と一緒にビニール詰め弁当である。出発前にホテルで食べてしまった。市街区を抜けると舗装の良い道路に出て専用バスは快走する。ザバイカル地方バスドライブで見聞した限りでは、この地方には高速道なるものはなく、今日走る道路が高速道に相当するものと思われた。大, 部の区間が直線道路である、交通信号、横断歩道路なし(都市の市街地以外),時速100kmを出せる、片側一車線の対面交通であり、長い直線区間では追い越しが出来る。これらの諸条件が揃えば実質のところ立派に高速道である。
農耕者も利用するとか、夕方には放牧牛の群れが道路をゆっくりと横切るとか、SAやPAが無いとかGSが滅多にしかない等の弱点があるものの、広大なるシベリア平原を風を切って疾走する快感と廣い青空の下に広がる壮大なるシベリアを見物できる利点がある。コクイへの途中は,まさに上記の体験、知見であった。長駆ドライブが退屈しなかった。しばらく行くと、ゴルフ場に出来そうな芝生のような草原が目に入る。少し進むとその芝生が剥ぎ取られて黒土色や黄土色の幾何的区画が見えた。何だろう?、ロシア通の岩岡さんに尋ねると、あれは中国人入植者が開拓している耕作区画地であると説明した。彼らに任せるとロシア人にやらせるよりもは遙かに高い収穫を挙げてくれるそうである。そこで盛んに中国人入植策を勧めているそうだが、反面でそのうち中国人にシベリア平原を占拠されてしまうとの懸念が出始めているとのこと。シベリア平原を眺めて景色だけでなくロシアの政治でも垣間見出来るとは、添乗委員に恵まれものである。
 スルーチェゲイ運転手が近道を採ると、「高速道」から進行方向を変えた。ちょっと不安げを起こさせる道である。不安は的中した。工事区間の多い道で、工事車が前方が見えなくなるほどの土煙を挙げて通り過ぎて行く。こちらの車はスピードダウンして慎重に進む。こんな経験を度々重ねながらの進行であった。幸い、工事車はヘットライト照らしてゆくので衝突は免れた。難所を通り抜けて切り通の所でトイレ休憩をした。私は切通の斜面下の藪陰で用を足したが、その際に朱い実を付けた棘の多い野草が目に入った。戻ってメンバーに知らせたら、赤い木の実はヤゴダ会のシンボルとなっている木の実であった。私はここで記念にと「シベリアの土」を傍で見つけた小瓶に詰めた。
 コクイには真昼近くに着いた。コクイはスレテンスクの直ぐ西隣にあるシベリア鉄道沿線の町である。かっては河川運航の船舶を造る造船所があり、ここで日本人抑留者が造船所で働かされていた。慰霊碑がこの町を一望できる岡の上に建っている。市街地から山道を上り、岡に至る手前辺りからは道なき所をバス車体を左右、上下と揺すり乍らしてやっと頂くに着いた。正午の太陽の輝く青空のもとで、慰霊碑前に並び、慰霊の儀を行う。神戸さんは若かりし頃の美形の亡き祖父の遺影を慰霊碑前に置き、黙祷をささげ、悼辞を読み上げた。私はみんなが慰霊の供え物等の準備をしている間を利用して、ここから約260km彼方にあるボルジャの方角に向けてかの地に眠る長兄に遥拝、黙祷を捧げた。持参したすでに亡くなった遺族写真をその方角に捧げ持ち、榮兄さんはあちらの彼方に眠っていると呟いた。慰霊の儀は同じパターンで執り行われた。私は神戸さん音頭の合唱の終了後にここでも「バイカル湖のほとり」の替え歌を独唱した。そして以下の悼辞を読み上げた。

     理不尽な受難  不条理の運命  ご帰国の願い叶わず
     無念の人生を終えられた皆様の  御霊の安からんを
     お祈り申し上げます

 慰霊を終えて町に下り、町中心部にあるレストランで昼食を摂った。時間がまだ早いのか、客はわれわれだけである。奥の個室に案内されてロシア料理の代表とされているラグマン(ロシア語をアルファベットで表示すると、「Laguman)というもので、具の沢山入ったウドンのようなものであり、肉片、じゃが芋、人参、玉ねぎスライス、トマトが入っている。ラグマンの他に、肉片をサランラップに包んで蒸した品とじゃが芋クリームようにして波の型取りをした2品が出た。サラダは赤ピーマンの細切りに味付けたもの、主食?の黒パンと飲み物としてジュースと紅茶が出された。小食の小生はラグマンだけで満腹になった。好きなコーヒーは別売りであった。レストランのあるこの地区には、
スーパー在り、銀行、警護警備会社、女性の出入りが多い派遣会社らしい事務所ありで、町の中心地である。短いが並木通りも見えた。近くに旧造船所があったので近づいてみんなで黙祷した。
 コクイを去る時に気がかりなことが2点あった。1つは眺望の良い岡の直ぐ近くにまで新住宅群が迫ってきていることである。見晴らしの良い岡の頂に新興住宅地が上がってきたら慰霊碑が邪魔者扱いにされて他へ移されるかまたは取り壊されるかも危惧された。もう一つは慰霊碑の銘板が剥ぎ取られていたことである。理解のない住民の中には将来銘板被害の加害に留まらず、碑石を石材にと盗み出す輩が現れるかもしれない。コクイでは、ブカチャーチャーに於けるような心温まる扱いは市民や地元当局からもなかった。
 次に訪れたのは、コクイから約40kmあるカリムスカヤ町の慰霊碑である。此処に着いた時は夕空に半月が輪郭をはっきりさせて輝いていた。町の直ぐ近くの小高い丘に登り行き、鉄柵で囲まれた町の共同墓地の中を通り、頂に近い墓地の脇に建つ「日本人埋葬碑」と記した立派な石碑(名古屋ヤゴダ会建立)に至る。この岡には以前、抑留犠牲者の多数の遺骨が埋まっていたが、町の共同墓地造成のため遺骨が掘り出されて、その後それらの遺骨がどうなったのか不明ということである。
 日没後の残照で染まる夕空のもとで、慰霊の儀を執り行った。弘前氏は亡き伯父の遺影を置き、遅くなりましたが弘前から参りましたと悼辞を読み、頭を深く垂れて黙祷を捧げた。私は亡兄が眠る地に一番近い此処から、南東約200km彼方に向かって持参の亡き肉親の写真パネルを掲げながら遥拝、黙祷を為し最後の別れをした。
 岡を降る頃は辺りがすっかり深い闇に包まれていた。一日に二度、朝明けと夕暮れのミラクル・アワーがあると言われるが、その一つの夕焼け空しかも抑留犠牲者の皆様も仰ぎ見たであろうミラクル・アワーの時間に今日の最期の慰霊を終えた。天空に懸かる月を仰ぎ見て望郷の念を強めながら願い叶わず果てた抑留死亡者の心情は、遣唐使として大陸に渡り、かの地で重用されながらも望郷の念果たせなかった安倍仲麻呂が詠んだ和歌に通じるものであったと思う。
                 天の原ふりさけ見れば 春日なる三笠の山に いでし月かも

 月懸かる夕空での慰霊が出来たのは、草葉の蔭の抑留犠牲者の御霊が遠来の我々の労をねぎらってお膳立て下さったと思われた。岡の麓にある刑務所の照明の灯りを見ながら町中に降った。両側に並木がある大通りにあるレストランで急いで夕食を摂る。何しろこれから約150km先の今日の宿泊地、チタ市に向かう予定があるからだ。このレストランでは我々が慰霊訪問の日本人だと分かったのか、サービスの飲み物が出された。この地を離れるに当たり、一つ懸念があった。カリムスカヤ町民の死者への思い入れが厚ように感じられた。共同墓地にある墓石に故人のカラーの遺影を御影石に写し撮ったものを墓石に嵌め込んでいた。見た限り例ががなかった。また各家の墓地が柵で囲まれ、参墓の際に故人を偲んで語らうためだろう、中に小テーブルと椅子とが用意されている。
 将来、町の墓地の拡張と言う事態になれば、町の近くで見晴らしの良いこの共同墓地を拡張することになって日本人慰霊石碑の移転かまたは取り壊しになる懸念を抱く。
 暗闇の中、‶ 高速道 ”を走行した。チタ市に近づくと横断路が現れてくる。市街地に近づくと頻度は増し、市街地に入るとカウントダウン式の待機時間を知らせるカウント・ダウン装置付きの信号機まで現れる。宿泊ホテルは複合ホテルで、一般客向けのレストランや遊技場等があり、客室は5Fから上階二ある高層ビルである。玄関前に若者たちが屯していた。客室階のエレベーター前で客室のカギを手渡された(フロントはビル入口の1階フロワーである)。客室から外を見ると、照明灯が碁盤の目にな並ぶ広い公園があり、右手に正面をライトアップした高層ビルが建ってリる。このホテルがチタ市の中心街にあると分かった。

 A)最後の慰霊訪問地、山村のジブヘーゲン村(23日)
 最期の慰霊訪問地はチタから約500kmを軽く越える制法570kmの山村ジブヘーゲンである。往復合わせると1,000kmを越える超長旅のドライブとなる。早発ちのため朝食は弁当にしてもらう。これがあの田舎町チェルニシェフスクのホテル仕出しの弁当と同じく、サラダにキュウリ半切りしたのが包まれた例のビニール袋詰めである。地方中核都市でもこれだ、まるで遠い昔の世界に舞い戻った感覚であった。バスの中ではなく、出発時間をずらしてホテルで食べた。いやはや、昔の東北の片田舎で育った小生からすると無カニの日本に逆戻りした感じで、汲み取り便所、裏の畑から取ってきて間食にしたキウリなど、少年時代を思い出した。
 最期の慰霊訪問を無事に終えられるようにと念じて車中の人になる。聞けば今日の目的地は辺鄙な山奥を悪路を登り辿って行く大変な所らしい。朝のチタ市街地はザバイカル地方の中核都市(人口約30万人)の名に恥じない立派な街並みである。舗装道路に沿う大通りに建ち並ぶ建物は立派である。これらの中には抑留日本字が建造したものが幾つかあるそうだ。筑70年になるのに今も現役で利用されていると運転手さんが自分の事に自慢げに語る。市川団長は、山間の地獄の鉱山で2年間過ごした後チタの収容所に移されて3年の抑留生活をしたそうである。通りすがりで目に入る建物を指さして「あれは我々が造った物だ!」と口にした。木陰に見え隠れする川面を指さして「あそこでよく水浴びをしたもだ。」と語った。市街地から抜けると、団長は収容所のあった方角を指し示した。肥沃なチタに移ってからは、地元ロシア人と交流するようになり、食べ物等を恵んでもらい、地獄の鉱山の過酷な労働条件下で衰弱していた体を立て直すことが出来たとしんみりと語った。
 チタ郊外を出て平原を走る”;高速道”に入る。疾走するバスの窓外に広がるシベリア平原の景色を楽しみながら進む。ところがY字路に差し掛かったところで変事が起こる。若いポリスマンに停車命令を受けた。スルーチェゲイ運転手が下車してポリスとは長い会話が為されている。結末は彼が乗客にシートベルト着用を指示しなかったことで始末書を書かされ、1,000ルーブルの罰金支払いとなった。確かに、21,22日のバス走行では夜間も含めてシートベルせずのドライブであった。添乗員の岩岡氏は、この同じルートを過去幾度の慰霊訪問団を案内したがこんな事に出遭ったの初めてだと語った。そして「この国では警察官が好い職なのだ。」と呟いた。メンバーの何方かが運転手に罰金分を補填してやったと聞く。はっきりしていることは、団長がチタを去る際に運転手に罰金をあたる金額のチェップ差し出したことである。走り出して間もなく、運転手のスルーチェゲイ氏が珍しく自分からトイレ休止を申し出る。地元民から小バイカル湖と愛称されている「アレイ湖」がある自然公園に立ち寄った。当地では日曜とあって生やしの中でキャンプする若者たち、ボートを繰る者、水辺で楽しむ者らと人がそこそこに見られた。ここで湖を背景にしてスルーチェゲイ氏、ガイドのヤーナ嬢を囲んでみんなで記念写真を撮る。ヒロクと言う町で13時過ぎに昼食を済ませ、生花を買ってヒロクから4、5km山奥に入った目的地のジブヘーゲン村に向かう。
 山道のような道路を辿り、午後3時半頃に村役所(正式名はジブヘーゲン行政府と物々しい称号)に着く。女性の村長さん一人が出迎える。村長執務室の中で挨拶を交わす。デスクの上にPCが置いてあるのが目に入る。その後ろの壁面には見たことのある肖像写真が掛っているので目を凝らすとプーチン現ロシア大統領である。日本なら時の総理大臣の写真は政権政党本部にしか掲げられていなであろう。彼我の違いを感じた。村は本当にみすぼらしい。公共施設を含めて皆みすぼらしい。役場は少し大きくした民家並みの建物である。村長執務室の床は歩くときしむ。悪口は言えない、日曜と言うのに村長さんが我々のために出迎えてくれたのである。また抑留者の埋葬地への悪路の山道に行けるようにと乗り換え用の4輪駆動のオフ・ロード車と運転手を用意してくれていのだ。
 オフロード車に乗り換え、左右上下に揺すられながら車道と言えない山道を上り、草原に出た。女性村長も同行した。板橋しかない小川の手前で車を降り、小川を渡って白樺林前で仮設の慰霊祭壇を拵えた。収容所のあった埋葬地は9km先の草深い道なき山中にあるとのことであるが、とてもアクセス困難と見て断念して、白樺林に日の丸と協会の幟を吊るし、慰霊の儀を執り行った。市川さんが亡き伯父さんの好きだった趣向品を供えて神妙な姿勢で黙祷をしていた。女性村長さんを入れてみんなで記念写真を撮る。オフ・ロード車を運転していくれたロシア青年が、「イッチ、二ィ、サン」と日本語で掛け声をかけて撮ってくれた。村に戻り、謝意と別れの挨拶をして村を後にした。村長さんが別れ際に市川団長に村の特産品と言う手作りの魔除け人形一体をプレゼントした。この可愛い魔除け人形を帰途の車中でメンバーが代わり番に回し抱いてそのご利益,御徳得を分け合った。 
 白樺林から望む山奥に眠る抑留犠牲者の方々の御霊はこれを訪れ、弔う肉親や日本人がなく寂しく眠っているのだと思うと、やり切れない気持ちに襲われた。戦後はここでは終わってはいない、せめてここに眠る方々の遺骨を探り当てて母国に持ち帰って弔うことが済まないことには、戦後は続いているのである。遺骨収集が困難であること理解できるが、何年と要してもやり遂げなければならない残された課題であると考える。
 復路に就いた時は残照の残る夕暮れであった。いわゆる高速道に入り、一路チタに向けて進路をとる。もちろん全員がシートベル着用して走る。夕暮れに暮れるザバイカルノ平原、緩やかに広がる草原を見ながら進む。バスのガス欠が心配になり、GSを探すが見つからない、やっと見つけて寄ったGSも給油切れのガス欠だ。残りのガソリンでチタを目指すことにする。
 前方にゆっくりと動く群れの影が見えてきた。近づくと放牧地から道路反対側にある牛舎に帰る牛たちであった。彼らが通り過ぎ去るのを待って、再発進となる。車の後ろの方で、「シベリアの牛たちは利口だよな、牧者に導びかれないのに時刻になれば牛舎に戻るからな」と声がした。同感!これはまさにシベリアの牧歌的な光景である。半月が輪郭を一層鮮やかに夕空高くに浮かんでいる。日没の残照に染まる雲が棚引いている。チタ市に入る頃はすっかり夕闇に包まれていた。ホテル2階の一般食堂で遅い夕食を食べた。スルーチェゲイ運転手の話では、シベリア鉄道をチェルニシュフスで下車して以来ザバイカル地方を走行した総距離が2,000kmを上回ったとそうだ。
      
  
 

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