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zoom RSS  シベリア慰霊訪問記 8. シベリア最後の一日

<<   作成日時 : 2016/07/10 14:24   >>

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 @) チタ空港
 24日がザバイカル最後の日となる。早朝の7:00発航空便でハバロフスクに向かうため早起きしてホテルをバスでチタ空港に向かう。予定通り4時30分に着いた。飛行機離陸の2時間前には空港ターミナルが開くと言うのに30分待っていても開かない。気温12度の早朝の寒さの中で待つことにした。そのうちロシア人客が次々と来る。彼らはターミナル入口前におとなしく並んで開くのを待っている。イライラするのは我々日本人だけか、そのうちにターミナル内部に照明が灯り、やっと一時間遅れの開場となった。岩岡氏の解説では、空港管理を一手に握る男性管制官の出勤が遅れたためだろうとことだ。彼の到着を待って営業開始という訳だ。入場して女性職員の手荷物等の厳重な検問を受ける。小生は岩岡氏の指示の聞き違いで飲み残しのウオッカ小瓶を没収された。結果的にメンバー全員が無事パスする。この空港は軍民兼用らしくチェックが厳しい。ターミナル内のトイレでは男女トイレ前のそれぞれに男性、女性の職員が立っている。案内役かそれとも監視役かと考えてしまう。多分後者の解釈が当たっているかも。離陸に少し時間があるのでターミナル内を探索する。礼拝堂のような小室があった。入口にロシア語で小礼拝堂の額が掲げてあった。室内を覗くと聖画の壁画やマリア像らしい立像があった。ロシア人は信心深いのだなと思った。
 さて遅刻した男性管制官は予定通り7:00時ジャストにハバロフスク行きの航空機を発進させた。彼は前夜の日曜にウオッカを嗜んでも二日酔いになるほどの深飲みはしなかったと推察できる。今日市販のウオッカのアルコール度上限が40度に規制されていそうだ。後述するように、市内の店で販売されているウオッカの上限アルコール度がピッタリ40度であった。規制しないと、酔いの原因になる体内アセトアルデヒトを分解する強い酵素を持つ彼は度の強いウオッカを底なしに飲んで二日酔で社会生活に支障をきたすことになるからだということである。私事ながら40度のロシアのウオッカが好きになった。蒸留酒には糖分がないから糖尿病の人でも嗜めると或る老医師と来ていたので試してみた。酒に弱い小生は少量でいい気持になることを発見した。すっかりウオッカ愛好者になった。
 機内には白系ロシア人の若い家族や赤ちゃんや坊やを連れた若い母親など、華やぎが見られたる。hと津市内喜名トイレの前に行列ができる。赤ちゃんと坊やを連れた母親が私の後ろで待っているので順番を譲る。ロシア民の「黒い瞳」のロシア人を半数くらい見かける。ハバロフスク空港に予定の9:00時に到着する。低飛行に入った時に窓下を見ると、アムール河支流とその沿岸に多数の残存湖沼が目に入る。河岸には新興住宅が建ち並ぶ。増水時の被害が心配された。
 11:40にハバロフスク空港に着陸する。税関等を全員パスしてバスで市内に向かう。小生はターミナルに向かう連絡バスの中でメモ取りに気取られ、降り損なった.。中国人らしい運転手にボディー・ランゲイジを使い、ターミナル入口に戻してもらった。皆さんに心配をかけてしまった。昼の州都ハバロフスク(人口約60万)ン市街地を見ると空港の看板に書かれているように「Capital of Rossia east far 」の貫録がある。ホテルにチェックイン市,荷物を置いて市街地に在る日本人墓地を慰霊訪問することにする。ガイドはまたヴェリューナ嬢である。

 A) 市街地にある日本人墓地
 日本人墓地は,市街地にある市共同墓地の広い敷地の一画にそれなりの広さを占め、鉄柵に囲まれてある。中央に建つ「日本人墓地」石碑に1956年建立とあるから設置は、日ソ国交正常化の開始された後と考えられる。犬も日陰で腹をべたりと地面や石畳みにつけて避暑する昼下がりの暑い中、ここでシベまたhリア最後の慰霊を行う。
近くの花屋で生花を買い、墓地構内に入る。中央に建つ「日本人墓地1956年」と刻んだ石墓の前で慰霊の儀を行う。その後各自が敷地内を見回る。個人名の石墓もあれば多数の予約済み墓地やあるいは持ち主未定の墓地枠が並んでいる。個人の石墓では、秋山陸軍中将の名(この方は終戦の翌年にシベリアで自決された)吉田明男の名前や川越史郎の名前が目についた。吉田氏の石墓は立派な造りでロシア人の墓の様に遺影の御影石が嵌め込まれたものであった。他の個人墓石と際立った対比をなしている。秋田県在職中に彼のことを地元新聞で知って、興味をそそられて若干調べたことがある。彼はハバロフスク事件と言われる日本人抑留者がソ連側の過酷な扱えに対して抗議の作業サボタージュを行い、大騒動になった事件に収容日本人団長として深く関わった人物である(この事件に関して石田三郎「無抵抗の抵抗―ハバロフスク事件の真相)。旧関東軍総司令部参謀であった頼島龍三中佐を継いで団長をしていた時期に大事件が起こったのである。抑留者が帰国する段になって、ナホトカ港まで来て、帰還船のタラップを登りかけた時点で急に思い止まり降りてしまった。残留し、ロシアの女医と結ばれて2児を設けてロシアの地で生涯を終えた。立派な石墓は最初のロシア女性である女医さんが建てたものだそうである。彼は関東陸軍情報部に勤務していたことからロシア語を話せたことから、ロシソ連の国籍を取得し、モスクワの放送局で対日宣伝の放送に携わっていた(高杉一郎「シベリアに眠る日本人」、斎藤六郎「回想のシベリア」参照のこと)。彼は徴用になり、若妻を秋田に残して渡満した。とりわけ郷土心の強い秋田人の彼が望郷の念止み難きであったのに、土壇場で帰還船のタラップを降りてしまったのは、ハバロフスク事件の際に監督管理するソ連側に傾く配慮をする対応、姿勢が同胞日本人収容者の強い不評を買っていたからであろうと推察される。帰還船での仕返死を恐れたのであろう。現実に、帰還船が港を遠く離れて大海を航行中に親ソ連側に附いていた者が海に投げ入れられた事件があったと言われている(平和祈念展示資料館発信のシベリア強制抑留者が語り継ぐ苦労体験手記にある藤森隆行「哀愁の凍土」)。
 もう一人、川越史郎については彼の著書「ロシア国籍日本人の記録;シベリア抑留からソ連崩壊まで」(中央公論社)に詳しい。彼も吉田明男と同じく残留組で、ソ連国籍を取得しロシア女性と結婚して二人の男子を設け、モスクワ海外放送局で働き、最期は死に場所を祖国日本で、しかも生まれ故郷の宮崎にしたいと念じながら異国の地ロシアで生涯を終える。最初のロシア女性と離婚している点も吉田氏とよく似ている。

 B) ハバロフスク市内のお土産の買い物とアムール河見物
 明日は帰国、ガイドのヴェリューナさんの案内で繁華街のお土産店で各自買い物をする。私は我がワイフと息子の嫁さんに羊毛で編んだショールを買い、息子らには羊毛のマフラーをお土産にした。孫娘にはロシア人形の代表であるマトリェ―シカ(Matreska;この語には複生の意味がある。入り子式こけし人形とも言えるもの)を買う。自分用にも入り子の数が違うこの人形を幾つか購入する。地下の売り場で念願だったシベリア風景を描いている画集を手に入れた。
 この後、グルジャ料理店でランチを摂る。天井に前衛画風のデザインが描かれている。側面にはバイカル湖に生息する魚の数々がリリーフになってい描かれている。次は一般向きの店での飲食物等の買い物ということで、市街地のある高台からアムール河沿岸に新しくできた大型スーパーへと下る。彼女の話では、アムール川の氾濫で低地に出来た新興住宅や商店、事業所等が大水害を受けたそうである。ちょっと意地悪かなと思いながら、貴女のお住まいはどちらですかと尋ねた。高台のマンションですと聞いて安心した。日本語の達者な彼女とはよく会話を交わした。「割に・・・・・・」なんて言うあいまい言葉も言えるガイドである。スーパーには広い駐車場があり、店内は曲で賑わっている。買い物かごまたはキャリーを使い買い物をしている。レジで精算してフリースパースに出ると言う,日本で見るスーパーと同じである。私はお目当てのウオッカの棚を探すが店内が広すぎることもあってか、探し当てられない。店員に向、ウオッカと声を出したつもりでも通じないから、「Boyka」と記した紙きれを見せて初めて棚に辿り着けた。2人の息子に各1本と私様に1本の計小瓶3本を購入した。このスーパーは基本的に日本と変わらない。レジで領収証を渡すし、買い物入れのビニール袋代金を請求される。レジを出るとフリー・スペースである。このハバロフスクは日本企業がかなり進出しているのかな、このスーパーも我が国企業の経営なのかなと思う。何しろ市内を佐川急便車や日本運輸車が走っているのを目にした。佐川急便車なんかは漢字名「佐川急便」と記して走行している。
 未だ時間があるので、ホテルからも近い「崖」と呼ばれるアムール河を見下ろすことの出来る公園に出かける。眼下にアムールの広大な流れが展望される。沿岸にある道を夕暮れの散歩を楽しむ市民の姿が見える。対岸の西に中国領が見える。後ろを振り向くと、高台に建ち並ぶ市街地の高層ビルの建物が夕日を受けて輝いている。ロシア正教の青色や横褐色の特徴的な尖塔が青空背景に立っている。アムール河の遠望佳し、高台の建物の眺め佳しである。展望台の後ろに将軍の大きな立像が建っている。ハバロフスク地方の開発に功績があり、ハバロフスク市を開都した帝政ロシアの貴族将軍の立像である。彼はそのミドルネームをアムール河の名に因んで「アムルスキーと改名したそうである。ヴェリューナ嬢によると、アムールというのは先住民の言葉では‶ こんにちわ”の意味だそうだ。いい挨拶言葉だ、日本とロシアが日本海を挟んで 「こんにちわ」と、日本と朝鮮半島が玄界灘や日本海で向き合て「こんちわ」と交し合う。日本と中国が東シナ海を隔て『こんにちわ』、『ニーハォー』と挨拶を交わし合う耳朶になって欲しいものである。
 ヴェリューナさん、シパシーバ! あいがとう!

 C) 最後の晩餐会
 シベリア最後の晩食となる、シベリア最後の晩餐会をした。月曜日というのに客で賑わうホテルのレストランでその中二階の個室で行った。団長さんは、かってソ連兵たちに褒められたと言うカ「チューシャ」のロシア語独唱をしてみんなの大喝采を受けた。あの過酷な抑留生活を生き延びるのに少しでも彼らとロシア語で会話できることが武器にななったそうである。市川団長がみんなの労をねぎらうとポーンと千ルーブルを出したので、最高齢2番手の私も同額を拠出した。そうして調子に乗り、自作の替え歌「バイカル湖のほとり」を独唱した。初めてみんなから拍手喝采を受けた。饒舌になるが、ここで替え歌作成の動機を以下に述べる。
 このロシア民謡の元歌は帝政ロシア時代に対ナポレオン戦争に出陣し、西欧社会を見て刺激されたロシア青年貴族将校らがロシアの旧態已然である専制政治打倒と農奴制の解体を求めて、3,000人の部隊で武装蜂起(1825年12月;デカブリストに起こったもので、「デカブリストの乱」と呼ばれる)を起こしたが3倍も上回る皇帝近衛部隊にすぐ鎮圧された事件を題材にしている。囚われてシベリア流刑となった或る青年貴族将校が脱獄して我が貴族館を目指して長い放浪の末、やつれ果ててやっとバイカル湖の辺までたどり着いたという實際の悲劇を題材にして作詞されたと言われる。夢破れて厳しい自然の辺境地シベリアで若い命を落としたロシア青年将校らの悲劇は、やはり帰郷の願い叶わず異国の地に散った日本人抑留者の悲運と相通ずるものがある。そこで、原歌詞の一部を変えてシベリアで亡くなられた日本人抑留者の御霊に捧げようと拙い替え歌を自作した。

  原歌: わが国でよく歌われているのは井上頼豊の訳詩「バイカルの辺り」
      
      豊かなるバイカルの  果てしなき野山を   やつれし旅人が当てもなく歩む

      戦い敗れて        繋がれし獄舎を   逃れてこの道を歩む

      バイカルの辺りでただずむ旅人  暗き世を呪いて  悲し歌うたう

  自作の替え歌

      ザバイカルの果てしなき野山を  やつれし防人が  足どり重く歩む

      戦い敗れて囚われし獄舎(ひとや)で  暗い夜遙かにふるさと想う

      ザバイカルの原野にただずむ囚われ人  暗き世を呪いて  悲し唄歌う

  注解;ザ・バイカルはロシア語では₍バイカル湖の後方または東方の意味で、いわば昔に東北地方が京都から見れば遙るかに遠い「陸奥」と呼んだように、首都モスクワからすれば「バイカル湖の東、後方」が遠流の地と見られたのである。デカブリストの乱を題材にした歌は他にの沢山あり、次に紹介する伊作山氏の訳詩が元歌あの趣旨をよく表しているので記してみる。

       題名;放浪者(Dekari) 伊作山柴六訳

     夢に見た理想はここに破れて 流されて今行く 流刑の道行き

     故郷は遠くに恋人さえも    凍る道歩める   流刑の道行き
    
     仲間たちも今は獄につながれ 便りなくひとり  流刑の道行き

     広がるバイカルの白き湖面に われちかう    必ずもどると

      コメント; 最後の連が凄い!第2連の「恋人さえも凍る道歩める流刑の道行き」の恋人というのは、流刑 
     になった夫苦しみを共にせんとシベリアに赴いた公爵夫人のことである。民衆派詩人にして名雑誌編集       者と謳われた19世紀のロシアのネクラーソフが著わした「デカブリストの妻」(岩波文庫)に彼女のことが       描かれている。

 D> 帰国(25日)
 ハバロフスク空港11:50離陸なのでホテルのチェックアウトに時間的に余裕があるから、朝食前に外でストレッチ体操をする。次に習慣にしている「立ち禪」を行う。これは前衛俳人の金子兜太がしていると言う記事を見て見習うようになった朝の習慣である。足裏に地球の重力を受け止めるように起立姿勢で行うものである。シベリアの朝の新鮮な空気をゆっくりと吸うて吐く呼吸を約20分ほど行う。ホテルを囲む森には小鳥の声が全くしない。日本なら朝の餌探しに小鳥の声がするはずなのに、姿も鳴き声も全くない。この度のシベリア旅行で、田舎でもカラス、スズメ、鳩も見なかったし、声も耳にしなかった。餌になるものがない所にはこれらの家鳥さえいないのかと思った。チェルニシェフスクのホテルで見たハエとアレイ湖公園の松林で見た巨大な蜂塚が実見例である。シベリアに生息する生き物は、人間に恵みを与える牛と一方で夜出没する恐ろしい狼と毒で人をも殺すスズメ蜂だけなのかと疑う。
 早めに空港に着き、税関を全員パスして搭乗口待合室でゆっくりする。200ルーブルのホットコーヒーを飲みながら川越さんの席を見ると、彼女は手にしている何かの報告書が目に入る。大学生が中心になって太平洋戦争で戦死した日本人将兵の遺骨収集活動を続けているPNO日本青年遺骨収集団(YJMA)の26年度報告書であった。太平洋地区戦場での戦没者だけでなくシベリア抑留者死亡者の遺骨の収集まで行っていることを初めて知った。終健気な青年たちである。殊勝な活動である。
 さていよいよ離陸だ。ハバロフスクを発つに当たり、ハバロフスク賛美を一振りしよう。ハバロフスクは整然とした街並みである。並木が連なる大通り、歩道にゴミ等が見当たらない。岩岡氏の説明では10年ほど前に開都65周年を機に街の大改造が為されて今日の立派な街並みになったそうである。今は極東ロシアでウラジオストックに着く60万人の大都市であるとのこと。市街地は高台にあり、洪水被害の心配がない。アムールの広大な流れを「崖」から眺め楽しめる。ホテルのトイレはウオッシャーがないが水洗で清潔、しかもドライ・クリーンはある。酒に強いロシア人が出回る深夜を除けば治安が良い。街頭や店、ホテル内で不愉快な思いは一度も体験しなかった。そして何より心強いことは、市内を二ホンが走っている。トヨタ、日産、ホンダ、マツダ、スバル、三菱パジェロ、いすずの大型車も目につく。パトロー・カーはトヨタ製で、佐川急便も走っている。トヨタ製のパトカーはオーストリアとイスラエル旅行でも見た。中東で騒がせてる武装集団までが使用しているそうである。そのスピード性、耐久性、機動性の三拍子が揃っているのが愛用される理由だとニュ―ズウィーク'15・10・20日号が月て伝えている。
 日本語学習の学生が近年増加しているそうである(後述する)。片田舎で青年「イッチ、二ィ、サン」と撮影の際に掛け声を口にする。田舎の町で中年男がカラテ、ゴクドウ、フジサンと片語日本語を発する。ガイドのヴェリューナさんの日本語は分かり易い。
 成田便は予定通りに離陸する。大風雨襲来の前触れの曇天下を成田向けに飛行し、約2時間で成田に着陸する。税関をパスして空港ターミナルに入ると強制抑留者協会の吉田事務局長と日本旅行社の笹本氏が出迎えていた。市川団長の解散の挨拶の後、各自が家路へと向かった。出迎えの家族は我がワイフを含めてなかったようだ。
私は、京成スカイラーク・山手線・西武新宿線で狭山の我が家に戻る。玄関で帰国者の私を見て、予想と違う元気な顔色を見て驚いていた。シベリアから英気と元気を頂いて来たと答えた。


 
 
  
  


 

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