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zoom RSS 遠野出身者の東京見聞; 7:柳沢吉保のこと;果てしなく広がる草野原の武蔵野改造

<<   作成日時 : 2008/04/30 20:47   >>

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 日本歴史上で功罪相半ばする柳沢吉保について述べる。埼玉西部に住んで分かったことは川越を中心としたこの地では柳沢吉保は名君の部類に入っているようだ。古くからの民家では祖先の位牌と並べて吉保様の位牌を仏壇に置くと聞く。武蔵野台地と呼ばれる平坦地のこの地方に見られる、幅広の長く延びる帯状の平地林とこれに囲まれた短冊形の広大な農作畑の風景が川越藩主になった吉保(当時は未だ旧名の保明)が年貢増収の目的に行った新田開発(三富新田)に由来すると言われている。このことを、好天に誘われて居住地の狭山市近隣接の所沢市、川越市、三芳町を駆け巡るサイクリングの道すがらで初めて知った。以下に、仕入れたばかりの知識を紹介する。

 たまたま、牡丹の見物客で賑わう場所に通りかかった。多聞院というお寺であった。出店も開いている境内に入っていろいろな種類の見事な牡丹を見物したあと、いつもの癖から寺の縁起を説明する案内板をゆっくりと見た。次に隣接の神社(神明社)にも歩を進めて別の案内板を見た。ここで柳沢吉保の現在にも足跡を残している三富新田開発の民政業績を知った。
 入植農民一戸当たり約五町歩の耕作面積を割り当てたとのことで、この耕作地の広さは当時としては今の秋田県の大型干拓村(大潟村)の入植農民一戸当たり10町歩に相当する大規模農作地であったろう。こんな大規模の新田開発を現在の川越市、所沢市、三芳町それに狭山市の一部にわたる広大な地域に打ち進めたことを思うと、吉保という人物の大きさを感ぜざる得ない。彼が開発し整備した風土の佇まいが現在にしっかりと残って、この地の古くからの農家を潤し、今見る平地林が広がる武蔵野は、かの国木田独歩がその小説「武蔵野」で賛美した光景として受け継がれているのである。我々のような新住民の目をも楽しましてくれる。かっての武蔵野は和歌やその他の文学にも取り上げられることの少ない、馬上の人の見えぬ丈高の草茂る果てしなく広がる原野であったと「とわ
ずかたり」に描写されていた。
 三富新田開発の名は上富、中富、下富それにもしかすると狭山市奥富の現在の地名に受け継がれている。柳沢吉保の悪口などはとても口に出せない。この地の優れた風土を吉保を抜きにしては語れないのだと言うことを今日のサイクリングで痛感した。
 
 彼は入植農民のために寺院まで建てたそうである。立ち寄った多聞院がまさにそれであった。近くにあるもう1つの寺院の多福寺も吉保が建立した仏閣であると言われている。折角の新田開発も水利の悪いこの地が穀物類の耕作に向かず、作物に工夫と苦労が求められた。この地の風物詩になっているお茶畑とさつま芋作りは先人の苦労と工夫の結実である。
 神明社の左脇に「甘藷乃神」と名乗る小さい新築の祠があった。この地方に甘藷作りを青木昆陽のさつま芋栽培試作の成功に遅れること16年後に始めた名主、吉田弥右衛門とそれに青木昆陽の二人を祀る祠であった。飢饉に備えての栽培奨励であったとのこと。その後、米穀の不足を補う自家の常用食糧として耕作するようになり、さらには江戸町民の間に流行してきた焼き芋用に出荷する商品作物としても作るようになって農民の懐が豊かになったと、説明書に書かれていた。これでは、弥右衛門さま、昆陽さまと崇めたくなるのが人情である。注意して欲しい、この祠が古いものではなく平成18年に地元民によって建立されたことである。祠の神前に建つ狛犬が脚で抱いているのが玉ではなくてサツマイモなのである。この地方で収穫されるサツマイモは川越名産物の「川越いも」として首都圏では有名である。
 一説によると、狭山茶は柳沢吉保が勧めて始まったとも言われている(竜門冬二;歴史に学ぶ不況に勝つ経営術、)。もしそうなら吉保のこの地での高い評価はよく理解できる。何処の地方でも今ある郷土の風土を築くことに功績のあった先人が居るものである。旧名が綾織村と呼ばれた我が郷里は太古の時代には湖であった伝説が伝わる土地である。湖畔に舞い降りた天女が織ったと言い伝えられる「綾なる織物:綾織り」が旧綾織(現綾織町)にある光明寺に実際に保存されていて現物を私もこの目で観たことがる。
 明治の代までは田植えに腰まで浸かる排水の極度に悪い所であったが、先人たちの努力で暗渠排水が為されて今は遠野盆地有数の米作地帯に生まれ変わっている。私事をさらに述べると、村立綾織中学校時代に、6反歩の学校田の農作業に農業実習ということで駆り出された苦い思いがある。お陰で田舎の農業に無関係な英語の学習を全くというくらいしなかった。

 それにしても思うのは所変われば人の評価も変わると言うことである。高知県に6年間勤務したが、四国を制覇した長曽我部元親が地元で人気のあるのに隣県の香川県や徳島県では由緒ある仏閣神社の破壊者として嫌われていたことを思いだす。旧遠野南部藩の在郷に生を受けた私の身近な経験を言うと、ワイフの郷里である弘前の津軽藩始祖、津軽為信は南部を裏切って分離独立した元南部藩士であるとして岩手県では嫌われている。それが我が最愛の伴侶が津軽藩上士の流れを汲む女性なのである。定年退職のあと第2の就職先として赴任した福島県の私立大学で同じ第2就職組の前東北大教授の先生と巡り会ったが、この方は南部藩上級家臣を先祖に戴いていることを誇りにしている先生であった。妻の出自を聞いて、夫のこの私は同系だがあなたの伴侶は仇だと真顔になって話した。まさに、根強く残る、所変われば評価が変わるの例である。人を観る際の複眼的見方の大切さを痛感する。
 現代版柳沢吉保の田中角栄元総理大臣も所変われば評判が変わる方であろう。地元新潟県では評論家諸氏とは違って未だに崇拝する人々が多いのではなかろうか。上越地方では根強い人気を誇っていることは間違いない、長女の真紀子代議士の未だ続く人気を見るとである。
 
 帰途はこんなことを考えながら、遠くからそれと分かる目印のない平坦の続く武蔵野台地を時に道を迷いながら、若葉の平地林を縦走したり結構幅があるこれらの平地林を横断したりの何回かの繰り返しを重ねて、やっと狭山市の見慣れた一角に辿り着いた。

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