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zoom RSS 遠野出身者の東京見聞93;遠野物語の魅力(改題と増補・追補)

<<   作成日時 : 2009/09/02 12:33   >>

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 我が遠高の前身である旧制遠野中学校を卒業された地元公立学校の元国語教師の佐藤誠輔氏が柳田国男著遠野物語を現代語訳したものを市立図書館から借りて読んだ(佐藤誠輔訳;口語訳「遠野物語」、河出書房新社)。確かに、柳田国男著原典より読みやすい。一気に読めた。読んで、遠野物語について若干思うことがあったので記してみる。

 T. 素朴な疑問


 1.奥州でもメイン・ストリートから外れた山奥の盆地地帯に住まいした人々が語り継いできた物語と聞くだけで、部外者の興味を掻き立てることはよく理解できる。私も、花巻から釜石線に乗り換えて郷里に戻る度に、柳田国男と同じ感慨を抱く。花巻を離れるとだんだん山地に入って行き、窓外から眺める川は蛇行し、両側の山々は迫り来る。人家など在りそうにも思えぬ、とんでもない山奥に入り込んで行くのではないかと、初めての旅人が怪しんでも不思議ではなかろうなと、郷里に戻る度毎に思う。生家に近い辺りに来ると視界が開け、盆地平地がぱぁーと目に入ってきて、驚きを誘う。ここが遠野か、私には我がふる里だという思いがこみ上げてくる。遠野が隔離された別世界という印象を外来者に与え、そこで語り継がれてきた昔話にも異郷趣味的な興味を起こさせるに十分な山間風景である。
 以下に、率直な疑問を投げかけながら遠野物語を読んでみた感想を述べてみる。

 2.果たして遠野の昔話が他郷とは違って、異質なのであろうか。読んでゆくと、どこかで聞いたこと、または読んだことのある話に出会う。
 @.遠野物語117話;ヤマハハ(山姥)とオリコヒメ
    両親が美しい娘ひとりを残して町に娘の花嫁支度の買い物に出掛けるが、娘には「誰が来ても戸を開げんなよ」と言いつけ、戸締まりをして家を出た。ところが未だ昼だというのに山姥が現れて娘を上手く騙して家の中に入り、娘を食べてしまう。そして娘の皮を被って化け、夕方に帰ってきた両親に「オリコヒメ、いだがあ(居るか)」と聞かれると、「いだます(おります)、いだます」と答えた。親は、娘に化けた山姥だとも知らずに買ってきた嫁入り支度ものを見せて喜ぶ娘の顔を見て満足した。翌朝に鶏がいつもとは違う鳴き声を上げるのを訝ったが、いよいよ娘を馬に乗せて嫁に送り出すことになった。馬を引いて出ようとした際、さっきの鶏が変な鳴き声を出したのでよく聞くと「オリコヒメ乗せないで、山姥乗せだ。ケケウ、ケケウ」とはっきり聞こえた。両親は山姥を馬から引きずり落として退治した。(概要紹介)
 この話はグリム童話の「狼と7匹の子羊」や「赤頭巾」の筋に一部分似ている。もう一つ似た116話の「山姥」(遠野物語)では、娘がひとりで留守番をしているところに山姥が現れて、親の言いつけを守って戸を開けない娘を脅かして侵入するが、娘は上手く家の外に逃げ出して人々に助けられて難局を切り抜けるという筋になっている。結末は、山姥をうまく騙して木造の長持ちの中に休ませて仮眠を取らせたうえでしっかりと施錠し、錐で開けた穴から熱湯を注いで焼死させてしまう。
 A.佐々木喜善著「聴耳草紙」天人子11話;遠野盆地のどこからでも望める秀峰六角牛山の山麓のとある池で、六角牛山の天人子(天女)が池中の石に着物を掛けて水浴を楽しんでいた。近くて畑仕事をしていた百姓がその美しい着物を見つけて珍しい着物だと欲しくなって持ち帰ったので、天女は天に帰ることが出来なくなってしまう。百姓男をやっと捜し当てて返してくれと頼むが、男は殿様に献上したので返せないと答える。天女は大層嘆いて、裸のままでは天に戻れない、蓮華花を植えて糸を作って機を織り着物を作りたいから、田を三反歩ほど貸してくれないかと、男に頼んだ。男は女の身の上を憐れんで願いを聞いてやる。池のほとりに笹小屋までも建ててやる。天女はやがて曼陀羅の布を織り上げた。これを殿様に献上して下さいとの天女の願いに従い男が差し出すと、殿様はこれは珍しい織物だ、これを織った女に会いたいと言った。殿様は天女を見ると世にも類のないその美しさに、御殿に留め置くことにした。そのうち夏になり、お城でも土用干しをすることになって、天女の無くなっていた着物も干し出れた。天女は隙を見てその着物を体に着て、目出度く六角牛山の方に飛んで行くことが出来た。(概要紹介)
 いわゆる羽衣物語の系譜につながる昔話である。但し、遠野の羽衣物語では男が女性の美しさに見取れるのでなく、その持ち物(着物)の方に惹かれる。また、女性を手放したくないために隠すなどの意地悪はせず、願い事を聞いてやる優しさを持ち合わせている。因みに、天女が織ったと言われている曼陀羅の織物が遠野盆地内の旧称「綾織村」の、とあるお寺に所蔵されている。ガラスの箱に収納されている現物を見たことがあるが、褪色していて模様の定かでない古布であった。

 3.他郷であまり類のない話として、どんな昔話があるだろうか。遠野物語というと河童の話が連想されるきらいがあり、遠野市の玄関口というべき遠野駅前に河童像があるくらいである。しかし河童民話の類は日本全国にあって、珍しいものなく遠野専売物ではない。中国大陸にも類話が見られる(石田英一郎「河童駒引考」1994年、岩波文庫)。他郷にあまり類の見ない例として直ぐ頭に浮かぶのは、不思議な余韻と読後感を残す「寒戸の婆」(遠野物語8話)である。次のような4話であろう。以下、概略を紹介しよう。

 @.寒戸(さむと)の婆
   梨の木の下に草履を脱ぎ置いたまま神隠しになったように行方知れずになった村の若い娘が30年以上も経ったある日、親類知人が集まっていた生家に戻ってくる。みんなは、初めは老婆が何者か分からなかったが、みんなからの問いかけに対して「おれ、こご(此処)の娘だ」と言うのを聞いて、ずうっと前に失踪したこの家の娘だと分かる。その老女は、村人達からいろいろと尋ねられたあと、「家の人たちに会いてがってきた(家の人たちに会いたくて来た)、みんなの顔見だからよがった。ほんで、まずーー」と言い残して再び消え去った。その日は1年中でもめったにないほどに風が吹き荒れた日であった。村の人々は、この事があってから、風の激しい日になると、「今日はサムトの婆が帰ってきそうな日だ」と言い合った。
 忽然と消えて長い時間を経て忽然と現れるまでの空白期間をどのように想像で埋めるかが楽しい課題として読者に残される。想像力を刺激する昔話は他にもある。次の「マヨイガ(迷いの家?)」は、山奥深くで無人の大きな屋敷に遭遇する話である。
 A.マヨイガ(遠野物語64話)
   土渕村の或る娘婿が実家の在る人の往来の滅多にしかない山奥地に向かったが途中で道に迷ってしまい、マヨイガに行き当たる。立派な黒門の家である。こんなところにこんな屋敷があるとは不思議だと思いながらも中に入ると、広い庭には紅白の花が咲いている。鶏がたくさん庭で遊んでいる。牛小屋と馬小屋には何頭もの牛馬が居る。家の中に入ると膳椀の用意が出来た部屋があり、また鉄瓶の湯が沸いている座敷もある。耳を澄ますと、何処か厠辺りに人が立っている気配がする。男は初め茫然としていたがそのうちだんだんと怖くなってきて、その家を逃げ出した。道に迷って行き先の実家のある村とは別方向の小国の里に出てしまう。小国の里の人々に山中で目撃した屋敷のことを話しても誰も本気にしない。しかし、婿入り先の土渕村に戻って話すと村人達は、「これごそ、噂に聞いたマヨイガだ、すぐ行って膳椀でも貰ってきて長者になるべし」とその婿に案内させて探しに出掛けたが、ついにマヨイガに当たる屋敷を探し出せなかった。(概説)
 B.ザシキワラシ(座敷童子)(遠野物語17話)
   主婦が縫い物をしていると、主人が留守なのに主人が居間にしている隣り部屋からガサガサと聞き慣れない音がした。そっと板戸から覗いたが人影がない。しばらく縫い物を続けているとまた音がする。鼻を鳴らす音だ。女はこれは座敷わらしだと合点した。
 C.笹原の女(遠野物語4話)
   山口村の吉兵衛という男が山に笹刈りに行った時のこと、刈り取った笹を担ごうと立ち上がろうとすると、笹原が波立ち風が吹き渡った。林の奥の方から若い女が幼子をおんぶして笹原の上をこちらに近づいてくる。見ると長い黒髪を垂らした極めてあでやか女である。ところが衣類がみすぼらしく、赤子を背負う紐は藤の蔓、着ている着物はよくある縞物であるが裾のあたりがぼろぼろに破れ、木の葉を差し込んでいる有り様だ。足は地に着いているようにも見えず、こちらを気にする風もなく、男の前をすうーと通り過ぎてどこかへ去っていった。男はその後この時のことを思い出しては恐ろしくなり、長患いのあと亡くなった。(概説)
 
 また、題材の特異性で他郷の昔話と違う例がいくつか挙げられる。お猿の嫁になるとか、美青年に化けた大蛇や美女に化けた白蛇または鶴と情を交わす異種婚の話はよく聞く。しかし馬や河童と情を結ぶ昔話は、遠野以外ではあまり聞かない。     
 @.オシラサマ(遠野物語69話)
   これは美しい百姓娘が家で飼っているめんこい馬っこ(可愛い馬)との間に強い愛情を交わす話である。ある村に馬っこの大好きな美しい百姓娘が寡夫で貧乏な父親と2人で暮らしていた。娘はいつも馬屋に行って話をしていた。そのうちに、夜になると馬屋で馬と一緒に休むようになり、父親がおかしい、おかしいと思う。ある晩、娘が馬と一緒にいるのを見て驚いてしまった。何もかにもごせ焼けて(腹立って)馬ごと憎らしくなって、次の日、娘の留守中に嫌がる馬を引き出して、高い桑の木にぶら下げて殺してしまった。可愛い馬っこが殺されたことを知り、娘は死んだ馬の首をかい抱いて泣き悲しんだ。父はそのことも憎たらしくなって、斧で馬の首をずぼりと切り落としてしまう。そうすると、馬の首は娘を乗せたまま天の登って行ってしまったそうだ。(概説)
 A.河童の夜這い(遠野物語55話)
   これは川端に立つ家の娘が河童と熱い情を交わし、河童の子を出産するという物語である。
 とにかく叙述がリアルである。例えば、家の人とみんなで畑仕事に出かけるが夕方になり、みんなが帰ろうとしてもその娘だけが川べりにうずくまって、なぜかにこにこと笑っていたとか、この娘が本物の人間の男性を婿に迎えるのだが、婿殿が浜の方に(三陸海岸、多分、大槌のことだろう)駄賃づけの仕事に出掛けた留守を狙って河童と逢い引きをする。さらには婿殿と寝室を一緒にしている夜にも通ってくるという始末である。ついには婿殿の実母までが登場して、夜中に義娘の監視をする。そんな夜でもこの人妻娘は傍に義母が居るのに夜中に笑い声を上げる。義母は、さては河童が来ているなと分かっても金縛りになったように、声も上げられず、体を動かすことも出来ず、万事休すである。
 必然の成り行きで、娘はお産することになる。とても難産だったお産が知恵のある人の忠告に従い、水を一杯に満たした馬樽の中で産むことでめでたく安産になる。しかし、産まれた子には水かきがあり、その姿形が全く醜いものであったために、その赤子を切り刻んで樽に入れて土中に埋めたそうだ。未だ話が続き、実はこの娘の母親も昔、河童の子を産んだという結語になっている。(以上、概説)
 ただただ、たまげだじゃ!(魂消けることだ!)こんな大胆不埒な異類婚姻談は他に例がないのではなかろうか。
 以上の2例は民話の分類から言えば「大沼池の黒竜」、「蛇女房」や「鶴の恩返し」の系統に属する話であるが、精読するとよくある異類婚姻談と違っているのに気付く。オシラサマの話では、娘が飼い馬と非常に仲睦ましかったことが分かるが、「蛇女房」や「大沼池の黒竜」に於けるように交合の段階まで進んだか否かは語られてはいない。家人が寝静まった夜間に飼い馬が美男子に変貌して娘と一夜を過ごしたという場面は述べられていない点に注目したい。次ぎに、2番目の河童の夜這いの話では、他の異類婚姻談に見られる異類ものが化けるということが無く、河童がそのまま河童の身で女性に堂々とアプローチしている。しかもである、このアプローチを女性が嬉々として受け入れているという始末である。遠野物語に現れる異類婚は、他に類を見ない独特な昔話であると言える。妖怪変化を持ちだして話を盛り上げる小細工はしていない、あるいは本当にあったことかもしれないと読者に迫ってくるリアリティーを持つ昔話である。

 4.しかしながら残念なことに、遠野物語にはロマンス性が欠けているように思われる。真夜中に無人の屋敷から妙なる調べの音が聞こえてくるとか、山中奥深く踏み込んで行くと森の奧から妙なる歌声がしてくるとか、少なくとも音楽的なロマンが見られない。調べや音声がテーマになっている例が2つあるにはあるが、ロマンス性が読みとれない。またこの世とも思えない美女が現れてロマンス物語が始まるという類の例は見つからない。悲恋ロマンに当たる唯一のは次に紹介する第3話だけであろう。

 @.大谷地の怪(遠野物語9話)
   ある笛の名人が駄賃づけの仕事でおぼろ月夜に境木峠を笛を吹きながら越えた際、大谷地というとても深い谷間に差しかかった時に谷底から甲高い声がした。「おもしろいぞう!」と。谷底には葦が生い茂っていてとても人などが居るはずのない沢であったので、仕事仲間も一様にぎくりとし、顔色を変えてみんな我先に逃げたそうだ。
 A.猿の経立(ふつたち)(遠野物語44話)
   六角牛山に峰続きのある村の炭焼き人の話。彼も笛の名人であった。ある日、炭焼き小屋で仰向けになって笛を吹きながら休んでた時、小屋の入り口の垂れこもを捲り上げる者が居た。男が身を起こして見ると猿のフツタチ(村人から固有名詞で呼ばれるから、彼らとは馴染みなのであろう)だった。猿はゆっくりと垂れこもを下ろして立ち去ったそうだ。(概説)
 B.魂の行方(遠野物語99話)
   明治の時代の話で、遠野の在郷から海岸の田浜と言う所に婿に行った男が、三陸大津波で妻と子供を失った。生き残った2人の子どもと屋敷の一角に立つ小屋で暮らしていた。夏の月夜の真夜中に起きて外にある便所に行った時、霧の立ちこめる渚を男女の2人連れが近づいてきた。見ると女は亡くなった妻であり、思わず跡を付けた。岬にある洞穴まで追い、中に入った2人に向かって亡妻の名を呼ぶと、女は振り向くとにこっと笑った。男の方を見ると、これは妻と同じ浜の者で、大津波で死んだ人だった。自分が婿入りする前に亡妻と深く心を通わせていたと聞いた男であった。女は「今はこの人と夫婦になっている」と言う。「子どもは可愛くないのか」と問い詰めると女は少し顔色を変えて泣き出した。遠野の婿は、死んだ人と話をしているようには思えず、現実のことのように悲しくなり、情けなくなった。うなだれているうち男女の2人連れは立ち去って、小浦に行く道の山陰に見えなくなった。婿は家に戻ってその後しばらくの間、悩み苦しんだそうだ。(概説) 追補:平成23年3月11日に東日本太平洋沿岸を襲った大津波で一瞬にして命を攫い去られた大地震犠牲者の悲劇を思い起こさせる民話である。


 U. 遠野物語の魅力

 1.西洋の童話やデズニーランド風のアニメ、また一頃大流行したハリーポッターに見るような、豊かなファンタジーの世界に誘うロマンス性には欠けるが、遠野物語には一度耳にしたら妙に心に残る不思議な魅力があることも事実である。遠野物語は「怪力鬼神」を語らない。日常の暮らしの中でも起こり得る非日常性が語られ、聞く側に想像を誘う余白を残している語り口である。「寒戸の婆」や「大谷地の怪」、「マヨイガ」、「笹原の女」の物語に見るように、実はこうだったという謎解きがなく終わり、物語展開の起承転結の定石に必ずしも従ってはいないが、却ってその「語り足りない」点が不思議な魅力になっていて、奇想天外、波瀾万丈の派手さに乏しい物語でありながら、一度読むと妙に心の内へ深く沈潜して、何かの機会にふと思い出すそんな物語が多い。目立たないが静かに日本人のこころに浸み込み日本人の心を強く捉える民話である。これが遠野物語の魅力なのであろう。


 2.造形芸術におけるミニマリズム(minimalism)と遠野物語の魅力(追補;H22年5月6日)

 人出が少なくなると見込んでゴールデンウィークに都心に行ってきた。書店巡りが主目的であった。池袋ジュウンクドウ、同じく池袋リブロ、新宿紀伊国屋で大概、用が足せる。渋谷のBook1stには絵画展を観に行った序でに寄ってみた。第一の収穫は、国丸良彦著「遠野物語再読」(試評社)であった。ミニマリズムのことを初めて知り、しかも1960年代に米国で起こった創造芸術の理論が遠野物語の魅力として上に述べた感想内容を芸術理論的に説明できるものであることを知ったのである。この理論は、過剰な修飾や文飾を排して必要最小限の表現で以て最大の芸術表現効果を上げようとする表現手法を勧めているそうである。遠野物語の「語り足りない」ところの魅力は、まさにこのミニマリズムの活用にあったのである。物語で言えばミニマリズムは、起承転結の特に「転結」部分を語らぬままに話が終わるところにあるのである。読者は、一体どうなったのか、どうしてであったのかの肝心なブランク部分を自らの想像力で埋め合わせる課題を残される次第である。疑問が残ったままであると言うことは、小生の専門分野の心理学に関連づけて言い換えると、心的な緊張が解消されないままに続くということであり(ツァイガルニク効果と呼ばれる現象)、だから「妙に心の内に深く沈み、何かの機会にふと思い出される物語」となるのである。遠野物語の著者、柳田国男はミニマリズムの言葉は使わないものの、すでに遠野物語の「語り足りない」点を指摘していることが初版書を読み返して分かった。柳田氏は、遠野物語第22話「丸い炭取り」を青い鳥の作家メーテルリンクの作品「闖入者」(戯曲)と比類している。
 以下に、2つの話の概要を紹介してみよう。

 @.遠野物語「丸い炭取」:
 ある家の曽祖母が亡くなり、納棺を済ませ、通夜に親類が集まった。棺を置く喪の間で祖母と母が火の気を絶やさぬようにと寝ずの番をしていた。真夜中、ギイッと裏口の戸が開く音がし、続いてヒタヒタと足音がした。目を凝らして見ると、入って来たのが亡くなった曽祖母であった。腰の屈み具合、着物の裾を引きずるのを三角に取り上げて前に縫い上げているのやら、見覚えある着物の縞目やらと生前とそっくりであった。あれあれと思う間もなく、2人の女が座っている囲炉の脇を通り過ぎたが、その際に裾が触って傍らに置いていた丸い炭取がくるくると回った。気丈夫な母が行く先を見ると、親戚の人々が臥している座敷の方へと消えた。この家の出戻り娘で気狂い女が,けたたましい声で「おばあさんが来た」と叫んだ。他の人々はその声に眠りを覚まして唯だ驚くばかりであった。

 (コメント;幽霊なら壁も板戸もスーッと通り抜け、いわば物理的な効果を辺りに及ぼさぬはずであるが、戸を押したり床を踏んだり炭取に触って転がしたりと、亡霊なのか生き返った老女なのか定かでない。気の狂っているひ孫娘に何か言葉をかけたのであろうか。白装束は何処に脱ぎ置いたのか、家人があとで棺桶を開けて調べたのだろうかと、様々な疑問が残る。ところで、三島由紀夫が「裾が触れて炭取がくるくると回った」の箇所を実に写実的な描写であると評したそうである。確かに、着物の裾を引きずるのを防ぐために裾を三角に括り上げて前に縫い上げた生前の姿の描写なども、昔話の語りには珍しく、実に写実的である。)

 A.メーテルリンク作の「闖入者」(戯曲):
  舞台;田舎の大きな屋敷
  登場人物; 屋敷の主(父)、その舅(目が見えない、妻の父親)、主の3人の娘(義祖父にとっては3人の孫娘 )、叔父。他に舞台に現れない人物が2人おり、一人はお産したばかりの病床にある主の妻(舅の娘)と異常出産の疑いがある生まれたばかりのその赤ん坊。産婦と子は別室にいる。この2人には科白なし。
 
 ストーリー;とても長いので概要で紹介する(ウエブ 「TheaterHistory」から訳出) 。
 子を出産した主の妻の容態がよくないのでみんなが居間で心配している。主は危険が去ったから心配がないと言うが妻の父は不安であり、誰か様子を見に行ってはしきりと勧める。実は、生まれた子が数週間にもなるのに泣き声一つ上げないことを不安に思っているのは妻の父親だけでなない。彼は、生まれた子が聾でしかもその上に唖ではないかとひどく心配している。いとこ同士の結婚のせいだと思っている。妻の父親は心配で3日間もよく休んではいない。家族は、会うのを止めるようにとの医師の言いつけで、病間に看護婦だけを付かして自分たち入らずに見守っている。
 病人が叔母に当たるらしい修道長の尼僧の慰問を望むので、来訪するようにお願いしているのだが夜になってもその叔母が到着していない。夜がだんだん更けて行くが叔母の尼僧長の来る気配はない。みんなは外の物音に神経を使う。通りに風があるみたいだとか、誰かが庭に来たようだとかと言うが、人の姿が見えない。でも主夫妻の娘たちは、木が少し震えたとか、庭の池の白鳥たちが一斉に飛び散ったことなどを理由にして誰か来たと主張する。初めは子の親である主や叔父はこれを否定する。叔父はそのうち、彼の姉である尼僧長が来たかもしれないと思い始め、庭に出て「ねいさん!ねいさん!」と叫んだが、庭に誰も居ない。
 そのうち夜が更けて寒いからテラスに出るガラス戸を閉めようと言うことになるが、どうしたわけか閉まらない。いろいろとやっているうちに、突然、草刈りの大鎌でも研ぐような音が外でする。目の見えぬ祖父が「オッー、あれは何だ!」と叫ぶ。娘が、家の影でよく見えないが庭男のようだと答える。主と叔父は、こんな夜中に草刈りをするものかと訝る。
 娘が「庭男が家の方に近づいてくる。彼は暗闇の中に立っている。」と言う。祖父は、「庭男が家の中で草刈りをしているようだ。」とまで言い出す。叔父はそんなバカのことをと強く否定する。そして主や叔父、それに娘たちも加わって、祖父が3日間眠らず疲れているのだとか、かなりの年だから変なことを言うのも仕方ないなどと老祖父の悪口を言う。そして祖父に休むことを勧める。眠りから覚めた祖父は、孫娘に向かって、何度も「自分がガラス戸の近くで寝ていたのか、ガラス戸に誰か居なかったか、誰か来なかったのか」と執拗に尋ねる。こんどは娘婿(主)と息子(叔父)に向かって「姉が来なかったか」と聞く。孫娘も婿や息子の叔父たちもノー!と強く否定する。主と叔父は尼僧の到来はないと踏む。しかし主の方は病床の妻のことが気になってくる。
 (このあと)誰かが屋敷に近づいて来るような音がする。叔父が、「姉が来た、みんな聞かなかったか。私は足音で姉と分かる。」と言い、主が「そう、誰か地階に入った。」と応ずる。しかし祖父は自分には何も聞こえないと答える。
叔父は「姉は病人が居るのを知っている。我々が此処に居るのを使用人に聞いて真っ直ぐ上がって来るでしょう。」と言葉を加える。主と叔父は姉以外に訪ねてくる者がいないはずだと言うが、祖父は地階に何の音も聞こえないと言い張る。そこで、下にいる召使いを呼んで事を明らかにしようということになる。
 祖父が「地階に音がする」と言い出す。娘婿である屋敷の主は、召使いが上がってくる音だと言うのに対して、祖父は「彼女1人だけではない。」と言う。後壁にある小さい戸にノックの音がしたので主が開けると召使いが立っている。召使いは誰も家に訪ねては来ませんと答える。主が、しかし誰かが戸を開ける音が聞こえたがと言うと、召使いはあれは開いていた戸を自分が閉めた音だと答える。このあと、誰が閉め忘れたかという議論になる。そのうち、祖父が「彼女が入って来たのか、彼女がこの部屋のテーブルに座っていたような気がした。」と娘婿の主に訊ね、さらに叔父に向かって「お前の姉が此処に居ないのか。」と訊ねて、叔父が「姉は来ていない」と答えると、怒って「おれを騙すのか、(それから、最年長の孫娘に向かって)本当のことを教えてくれ」とせがむ。孫娘の答えは父や叔父と同じく、誰も入っては来ていないということである。
 祖父が言い出す、
「誰か私の隣りに座っている。何が私の近くで起こっているのか、なぜお前たちは息をひそめて話しているのか。(婿に向かって)お前は誰か部屋に招き入れた。姉か僧侶か、なぜ私を騙すか。ウルスラ(最年長の孫娘)、誰が入って来たのか?(彼女も誰も入って来てはいないと答えると)どうしてお前までが騙すのか!」と責める。続けて、「それならこの部屋に我々は何人いるか?」と訊ねる。ウルスラが6人居ますと答えると、祖父は一人一人の名前を挙げて確認して行く。ポールは、オリバーは、ゲネヴェーヴは、ゲトルーデは、ウルスラはと次々に問う。このあと奇妙な質問を祖父がウルスラに浴びせる、「そこに居るのは誰だ。」と。誰も居ませんと彼女が答えると「真ん中に居るのだ」と返すのでさすがのウルスラも語気を強めて「居ません!」と叫ぶ。祖父は「お前らには見えないのだ」と呟くように言う。そして、「居たように思えたんだがーーー、私はもうそんなに長くないーーー」と言い、立ち上がろうとして「私はこの暗闇の中に入り込んで行くみたい!」と口にした。(主の父や叔父は怪訝に思い、祖父が今夜は変なことを口にすると語ると、祖父がおかしいのはお前らだと言い返す)
 祖父は、「自分が苦しいのが何のせいかが自分でも分からない。さあ、可愛い子供たちよ、手を差し伸べてくれ。」(孫娘たちの手に触り)、「おお、どうして三人ともそんなに震えているのか。みんな蒼くなっているよ。」と言う。
         ーしばらくの時間が経つー
 祖父が病人(娘)の部屋には全く音がしなくなったと言う。夫である主がこれを聞いて、「娘の部屋に行って確かめてみたいのか」と舅に訊ねると、義父は急に決めかねるようになって、「いや、 いや、 今はダメ、 やっぱりダメだ」と答える。そして続けて、「誰があの音を出しているのか?」と訊ねる。部屋のランプがちらちらし出し、やがて油がなくなり火が消えてしまう。しばらく暗闇の中で沈黙の時間が過ぎて行く。祖父が時計の音が大きくなったようだと言うと、ウルスラが「みんなが黙っているからでしょう」と説明する。祖父も主の父も外の空気が欲しくなったと言うので、ウルスラが窓を少し開ける。外の音は全くしない。
        ー真夜中に近い時刻になるー
 祖父が、ウルスラに、寒くなったから窓を閉めるように頼む。孫娘たちがお互いに頬を付け合う音を聞いて、祖父は何の音かと訊ねる。また、ウルスラが自分の手を握りしめる音にも「いまの音は何の音か」と訊ね、祖父は音にとても過敏になる。そのうちに、祖父は「怖い、子供たちよ。ーーー」と言う。テラスに通ずるステンドガラスの戸から月光が部屋の中に射し込んでくる。時計が真夜中の12時を知らせる。
 祖父が、「上に来ているのは誰だ?誰かがテーブルの上から立ち上がった!」と言い出す。叔父が灯りを付けろと叫ぶ。赤ん坊の部屋から突然、恐怖の叫び声が聞こえて来る。その泣き声は恐怖の度合いを変えながら続いてやがて終息する。主と叔父は赤ん坊が声を出したので喜んで、「子供を見に行ってみよう」と言い合う。その時である、部屋の右側で重そうな急ぐ足取りが聞こえる。そして直ぐシーンと静まり返える。みんなは黙ったまま恐ろしくなり耳を澄ます。部屋の戸がゆっくりと開いて光が部屋に射し込んでくる。黒衣の「慈悲のシスター」が敷居に現れ、十字を切って、身を屈めて主婦の死を告げる。みんなは分かった。一瞬、たじろき恐れたが病床にあった死者の間に静かに入る。部屋には目の見えない老人(祖父)だけが取り残される。彼は立ち上がって叫び、暗闇の中、テーブルの回りを手探ぐる。
                ー    幕    ー

 コメント: 話の展開にぐんぐん引き入れられるが肝心の結末が説明不足で終わる。それにいろいろと分からないことが多い。まず、産婦と生まれた子が姿を見せない。婦人は言葉も発していない。叔父の姉に当たる修道尼長が到来したのかどうか、それとも産婦の死を告げる黒衣の女が到来を待っていたその叔父の姉なのか、あるいは修道院の姉の方にも不幸があったのか、祖父だけが気付いた部屋の中に居たとういう者の正体は何か、母親は死んだが残された障害児らしい子はどうなるのかなどなど。いわゆる尻切れとんぼになっている。メーテルリンクのこの「闖入者」及び遠野物語に見れれる“語り足りぬ”語りは、三島由紀夫が指摘するように「言いさしてふと口をつぐんだような不測の鬼気を呼ぶ」不思議な魅力があるのである。
 三島由紀夫;「名著再発見ー柳田国男編著『遠野物語』、読売新聞1970年6月12日朝刊)

 追補(H25年5月20日): 遠野物語のふしぎな魅力に関して追補したい。「語リ足りない」ところに不思議な魅力のある点について補足したい。遠野物語には、変にリアリティーのある内容が多い。しかも語り足りないエピソードと言えるものが多い。非日常的で、しかし実際にあったかまたは有り得そうであるないようであり、しかもそれ故に語り足りない結末になる内容が多い。この非日常性のリアリティーであるが故に、語り足りない結末になるのであろう。その語りえない部分をフイクションで補い足さぬから、却って物語にリアリティーが出てくるのだと考えられる。遠野物語が持つ人々のこころを惹きつける不思議な力がこの語り足らぬ点に潜んでいるのでる。幾つか例を挙げてみましょう。

 @ 今で言うところの臨死体験譚(「造り酢の効き目」遠野物語拾遺159話)、幽体離脱譚(「墓場を訪れる病身の   幼子」遠野物語拾遺152話、「丸い炭取り」遠野物語22話「)。
 A 有りそうでないがひょうとしたら有るかもしれない話(「座敷わらし」遠野物語17,18話、「マヨイガ」)。
 B 本当かもしれないと迫る話(「大谷地地の怪」遠野物語9話、「猿の経立」遠野物語44話)。
 C 実際に有っても不思議でないと思わせる話(「寒戸の婆」遠野物語8話、「笹原の女」遠野物語4話)。
 D 真に実話だからこそ完結しない“語り足りない”話(「魂の行方」遠野物語99話、「墓標のかんざし」遠野物語     拾遺233話)

 結語

 遠野物語の特徴と魅力は、そこで語り継がれる内容が非日常的なリアリティーに富み、それ故に語り足りぬところがあり、その不足部分を想像で補うことを控える、所作を極限に抑える語りである点にあり、“秘すれば花”の能の美学を潜んでいることであると、遠野出身者は思う。  
       
      

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
不思議な伝説や謎めいた事柄が大好きで、遠野物語も気になっていたものの先送りになっていました。が、これほど興味深いなんて、すぐにでも読みたい気持ちです。感謝しますっ!すでにわくわくしています。
雪かき女
2014/01/06 19:33
興味深い!
たかうじ
2018/10/01 19:01

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遠野出身者の東京見聞93;遠野物語の魅力(改題と増補・追補) Reisetu/BIGLOBEウェブリブログ
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