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zoom RSS 古事記と創世記15;古事記14:天孫統治の長い空白時代その2(副題改題);志高き帝、上昇志向停止の帝

<<   作成日時 : 2012/07/27 11:13   >>

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 源頼朝が当時権勢を欲しいままにしていた武家最大勢力の平家を滅ぼして、鎌倉幕府を開いて実質的に日本の最高統治者になった時(1192年)から数えて、徳川幕府が政権を朝廷に返還(大政奉還)して天皇が表舞台に躍り出て再び日本統治の最高地位を取り戻した明治維新(1868年;明治元年)までの700年に近い長きに亘る天孫統治の空白期間の歴代天皇(第82代後鳥羽天皇から第121代孝明天皇)の有り様を見ることにするが、「空白時代その2」のテーマである。「空白時代その1」の「はじめで」で触れたように、天孫としての矜持と気骨または才覚を以て天孫統治復興を目指したお方または実行に移したお方と、矜持も気骨も持ち合わせてはいなかったか忘れてしまったかのように見える天皇とに分けて、それぞれ例を以下に述べてみたい。



 1.天孫統治の復活を目指した天皇、それを心に抱いた天皇


 第82代後鳥羽天皇と第96代後醍醐天皇は「空白時代その1」で既述済みなので、この二帝以外の天皇について述べることにする。四御方が挙げられよう。すなわち、第106代正親町天皇、第116代桃園天皇、第11代光格天皇、そして幕末の第121代孝明天皇の4帝である。4帝は、後鳥羽天皇や後醍醐天皇のように王政奪回の実際行動に出たわけでなく、戦国時代を勝ち抜いて覇者になった天下人の織田信長や豊臣秀吉、徳川将軍家に少しは勇気を持って物申したり、君臣の道を説く尊王論を禁中で論じたりするに留まった方々である。幕末の孝明天皇でさえ、かっての後鳥羽帝や後醍醐帝とは違って倒幕までは考えなかったと伝えられている。天子イメージの薄い他の天皇は、第2節で後述するように、いわゆる「お内裏様」に留まっていて、天孫の威厳も矜持も薄いお方がたであったようである。話を始める前に補足として後醍醐帝の皇子たちについて追補しておく。
 追補;後醍醐天皇の皇子たち:
 後醍醐天皇の、幕府から政権を奪回して王政(天孫統治)復興を目指す長い戦いにおいて彼の皇子らの活躍と貢献につて触れなければならない。天皇は子沢山であり、皇子だけでも18人居た。父帝の王権奪回戦に奔走した皇子らを貢献度順に挙げてみると、護良王(叡山仏門に入り僧兵動員の役を果たし、父帝挙兵後還俗して参戦・転戦して父帝を後方支援する)、懐良王(征西大将軍として九州に反足利の一大勢力圏を築いて足利勢を最後まで苦しめる)、義良王(北畠親房・顕家父子に奉じられて東日本を舞台に南朝軍として転戦する。のちに父帝逝去の後を継ぎ、第97代後村上天皇として吉野朝廷で即位)、恒良王と尊良王(両皇子は新田義貞に奉じられて朝敵尊氏討伐に従軍するがどちらも敗れて自害)、その他(成良王;南朝帰順後の尊氏に身柄を委ねられる、建武新政の鎌倉府将軍になるが建武政権崩壊後廃位となり毒殺?、尊澄王;仏門にあったが還俗して南朝勢再起に加わる、その他の皇子は早世または出家・仏門)である。

 1)第106代正親町天皇(在位1557年ー1586年)
  
 戦国のうち続く動乱とそれに伴う朝廷の衰微をつぶさに観てきた天皇は分別盛りの41才で即位する。朝廷の衰微は酷いもので、応仁の乱で京が焦土と化して、第103代御土御門天皇は難を逃れて足利義政の室町邸を仮宮とした。天皇が崩御した際には葬儀費用の捻出が出来ずにご遺体が御所に1ヶ月の置かれたと言われる。また第104代後柏原天皇即位に於いては即位礼の費用に事欠き、即位礼が22年後にやっと挙行される。父帝の第105代後奈良天皇の即位礼も費用不足で即位10年後に戦国大名の献金を得て挙行する。正親町天皇の即位礼は毛利元就らの献金を得て4年目に執り行われる。
 実年で即位した正親町天皇はなかなかしたたかな御方で、老練な政治手腕を発揮して、天下統一を目前にした17才年下の信長を相手に天孫としてのプライドと威信を失わず対応する。信長はこれに応えて、入洛にあたり軍規を保ち京の治安回復に努め、皇室の復興にいろいろと尽力する。天皇はこれを報いて、信長敵対勢力への講和の勅令を出し、また石山本願寺勢と信長との和解仲裁の労を取る。しかし信長の天下取りが見え始めてくると、天皇と信長の仲に黒雲が陰る(信長は手強い正親町天皇を排して「お内裏様」天皇を担ごうと策動し始める。しかしこれは本能寺の変で途絶する)。
 信長に代わって天下人に登った秀吉に対しては、(彼の出自の弱みをうまく衝いてか;私注)豊臣という有難い姓を賜り、関白職に就けて懐柔する。秀吉は、これに応えて天皇に御料地や莫大な黄金を献上する。また天皇が皇太子に譲位したい意向を聞くと退位後にお住まいになる仙洞御所の造営に着手する忠誠ぶりを示す。
 しかし秀吉は、新帝御陽成天皇の治世下といえ未だ正親町先帝が上皇として存命中にあったにもかかわらず、天下人として朝鮮出兵という重大国事を始めている(文禄の役;1592年)。初戦の勝利に酔って、「大唐に都を移し北京に御陽成天皇(正親町天皇の後継、第107代天皇)の行幸を願い、新都北京周囲10カ国を御料地として進上つかまつる。」なんて、大風呂敷を広げる。しかし海戦に大敗して戦況が不利になると自ら渡海して前線の指揮を執ると秀吉が言い出すに至り、時の御陽成天皇は、はじめて?口を挟み、太閤秀吉に渡海を思い留ませる書簡を送ったと言われる。国内鎮定の軍事出動ならいざ知らず、失敗すれば国の存亡にも関わる重大国事に対して天孫を自負する天皇家の積極的なリーダーシュップが見られない。鎌倉時代の元寇襲来の祭の朝廷の関与と比べてもその係わりが影が薄い。
 正親町天皇の孫に当たる第107代御陽成天皇は、天孫意識の強い帝であったようである。多芸多才で書をよくし、和歌にも秀でて学問に親しみ、和漢の古典を木版活字で印刷発行し、ご自分の書物には「神武天皇より百余代の末裔和仁」といちいち著名したと伝えられる(中央公論社版「日本の歴史」13巻江戸幕府)。父帝の第105代後奈良天皇も天孫意識の強い帝であったようである。在位中に諸国が洪水に襲われ凶作となり、続いて飢餓、悪疫が流行り無数の餓死者や病死者が国中に溢れる時期があったが、父帝は災厄終息を願って書写奉納した般若心経の奧書に、次のように記したと言われる(高森明勅監修「歴代天皇事典」;後奈良天皇の項)。
      「今ここに天下大疫、万民多く死にのぞむ。朕、民の父母として徳覆うこと能はず。」
 御奈良帝ー正親町帝の皇統には気骨のある天皇が生まれている。正親町帝の曾孫に当たる第108代後水尾天皇(在位19年)は、朝廷がそれまで高徳の僧に対する紫衣(紫色の法衣)勅許さえ自由に出来なくなるなど江戸幕府の厳しい皇室・公家の規制下(禁中並公家諸法度;孝明天皇の項で注解)に遭遇しながら、これに強く反発し、自分の思いを通して幕府が止めるのも聞かず無断で譲位している。しかもなんと、幕府から入内した秀忠の娘(和子)との間に生まれた女一宮を、彼女の実弟で後継天皇に目されていながら夭折した皇子の後釜に据える(第109代明正天皇;女帝)。以降、自分は上皇として院政を始め、明正女帝(在位15年)の後には女帝の異母兄弟たちを次々と皇位に就けさせる。その兄弟のうちで三番目に即位した第112代霊元天皇(後水尾天皇の第19皇子)は父帝や曽祖父正親町帝に似て剛毅の強いお方であり、在位25年で皇子に譲位して、幕府の制止も聞かず院政を行う。

 2)第116代桃園天皇(在位1747年ー1762年)

 7才で即位し、22才で早世された若き天皇である。激烈な尊王(尊皇)思想を説く山崎闇齋の垂加神道に傾倒して、宮中で若い公家らと垂加神道の進講を熱心に聞いた。天皇は、御歌「神代より世々にかはらで 君臣の道すなほなる我が国」にあるように、天孫意識の強い御方であったようである。宮中での進講を幕府に咎められて、進講が中止となり、朝廷内の若い尊皇派公家の大量処分となる(宝暦事件;1758年)。
 垂加神道は幕末の尊皇倒幕運動の教義的なバックグランドとなって後世に大きな影響を及ぶす。

 3)第119代光格天皇(在位1779年ー1817年)

 桃園天皇が早世した後、嫡子英仁王が元服するまでの中継ぎ天皇として桃園帝の異母姉が第117代後桜町天皇(女帝)として即位する。この後を継いだ英仁王が第118代後桃園天皇であるが、父帝と同じく早世する。皇子が居なかったので第113代東山天皇の曾孫に当たる兼仁王が後桃園帝の養子になって第119代光格天皇として即位し、39年間在位する。この天皇は幕府に対して言うべきことははっきり主張するお方であった。
 @ 天明の飢饉で人民の困窮の酷さを知って、平安祈願をすると共に幕府に対して民衆の救済を申し入れる。大飢饉に絶えかねた京の民衆が京都所司代に窮状を訴えて救済方を願い出るがさっぱり沙汰なしであったので、こんどは救済の訴えを御所に祈願して御所の周辺を大勢で巡り始める事態になる(御所千度参り事件;1787年)。天皇はこれを受けて京都所司代に民衆救済を申し入れて幕府側から京市民に対して米1500俵もの救済米を出させることに成功する。幕府の為政に対する口出しを禁じた禁中並公家諸法度に抵触する行動であったが法度違反は不問とされた。
 A 大火で失焼した皇居と仙洞御所(退位上皇の御所)の再建を幕府に掛け合って行わせる(1788年)。
 B 天皇は、実父である閑院宮典仁親王が天皇歴任の経歴に欠けるために徳川幕府が決めた宮中規制の禁中並公家諸法度の規定で宮中の次席が大臣よりも低いのを改めて上位につけようと、父の典仁親王に太上天皇(上皇)という尊号を宣下して贈りたいと幕府に伺いを立てる。しかし皇位になかった者に太上天皇の尊号を贈るのは道理に叶わぬと幕府から拒まれる。天皇はこれで退かず、公卿40名中35名の賛同を得て朝議として尊号宣下の実現を幕府に迫る(幕府の許可を待たず実行するという強硬姿勢を示す)。しかし幕府は尊号宣下を中止させ、朝廷の強硬派公卿のボス格の中山愛親、正親町公明の両人を解任させて事態を収束させる。世に尊号事件と呼ばれることである(1782年から1792年)。
 因みに、明治天皇の御代になって典仁親王は、明治天皇の直接の祖先に当たるお方である(閑院宮2代目典仁親王ー119代光格天皇ー120代仁孝天皇ー121代孝明天皇ー122代明治天皇の系譜)ということで、慶光天皇と太上天皇の二つの称号を贈られた。光格天皇の宿願が約70年後にやっと叶えられたのである。
 禁中並公家諸法度に見るように当時の天皇および朝廷は幕府の強い統制下の置かれていたが、心中には武家を番犬と見て蔑視する面があったようである。光格天皇の許で幕府への朝議等を伝奏する役をしていた正親町公明は、日記で江戸幕府を「東夷」と表現している(歴史読本平成16年9月号特集天皇家125代」;桃園天皇の項)。

 4)孝明天皇(在位1846年ー1866年)

 幕末の日本政治が大変革する激動時代に皇位におられた天皇である。小西四郎(中央公論社版日本の歴史19巻「開国と攘夷」の著者)によると、日本の近世以降の天皇の中では珍しく政治的行動と発言を為された唯1人の天皇であったと言われる。事実、天皇の発言と行動は幕末に吹き荒れた尊皇攘夷運動と次に時代の主流となった尊皇討幕運動の推移に大きな影響を及ぼす。孝明天皇の行動と発言、天孫意識等の詳説に入る前に幕末の外交諸問題に関して概説して見よう。
 ペリー総督率いる4隻の米国軍艦が横須賀の浦賀に来航して、武威を以て日本に開国・開港を迫った時から幕末の激動時代が幕開けする(1853年6月)。このような事態の到来をすでに予想して、海防に備えべきことを強く説く先覚者たちが林子平を始めとして渡辺崋山や佐藤信淵らと多く居たが、幕府はこの外警に耳を貸さず、祖法歴世の鎖国政策をとり続けていた。また、欧米の中で唯一日本と交易をしていたオランダの国王が、大国の隣国清国がイギリス軍艦の武力に屈して開国・開港を強いられた屈辱を引き合いにして鎖国政策の緩和を勧告(1844年)してきたのに幕府はこれに応じておらず、異国船打払いなど叫ぶだけで無為無策であった。このように泰平の惰眠を貪っていた時にペリー艦隊の恫喝開国を突き付けられて幕府は大惑いに陥る。なにしろペリーの恫喝は凄く、もし要求に応じなけらば琉球列島の占拠の辞さぬと言う強硬姿勢であったそうである。(今のアメリカの攻撃的な外交姿勢と同じ)。ペリーは、再来航するまでには回答せよと言い残してひとまず立ち去る。再来航したペリーは強談判して自国に有利な「日米和親条約」を幕府に承諾させて下田と函館2港の開港をものにする(1854年)。これが突破口になり、日露間、日英間、日蘭間と次々と「和親条約」を結ばされる羽目になる。
 この時点までは朝廷は未だ先鋭的な攘夷論にまで至っておらず、和親条約なら貿易規定がないから国内経済にさして影響なく神州の瑕疵にあらずとのんびりしていたらしい。しかし、和親条約から治外法権を盛り込んだ日米通商条約と話が展開する事態になって、朝廷はもとより幕府内でも攘夷論が燃え上がってくる。なにしろハリス駐日米国総領事もペリー総督と同様に、日本が条約締結に応じなければ平和の使者に代わって大砲と軍艦が来ると脅かしを掛けながら交渉してくる。(此処でも今の米国武力外交が垣間見される)
幕府は此処で通商条約の受諾の当否を専決で進めるやり方を廃して、2つの手順を踏む。第1は諸大名に意見を諮問する。諸大名の大多数が貿易開始止む得ずという意向を受けて、これに若干の修正事項(例えば公使の江戸駐在は認めない)を加えて、第2として最関門となる朝廷の勅許を乞う。此処で孝明天皇の登場となる。天皇ははっきりとものを主張される方であり、しかも日本が神国でありその神国に異国人(天皇の言葉では「夷人」)が住み込んで商売するなどは神国を汚すこと考える、異国人嫌いのこちこちの攘夷論者であった。天皇への説得が難航する。尊皇攘夷派の公卿たちがこれを後押しするから堪らない。結局、勅許が得られず、米国への回答期日が迫る。
 老中阿部正睦に代わった大老井伊直弼は勅許を待たずに日米通商条約の締結に踏み切る(1858年7月)。幕府は、勅許を待たずに結んだ通商条約を国内的には「仮条約」と称して、反対派の攻撃非難をかわそうとしたと言われる。(これは今の政府もよく使うかわし手である。) しかし大老井伊直弼の苦渋の判断も理解してやらなければならない。

 その時の直弼の心境(井伊家文書、中央公論社版「日本の歴史」19巻、p122):
 もし戦って敗北し地を割くなどとなればこれ以上の国辱はない。今日、拒絶して永久に国体を辱めるのと、勅許を待たず国体を辱めないのといずれが重いか。今、国の海防・軍備は十分でない。しばらくの間外国の要求を取捨して害のないものを選んで許可するだけである。ーーーー。そもそも大政は幕府に委任されている。政治を行う者は機に臨んで権道を執る必要もある。しかし勅許を得ない重罪は甘んじて、直弼1人がこれを受ける覚悟である。
 (今の日本政治家連中に聞かせたいことばである!それとも、尖閣諸島への覇道的なレッドチャイナ政府の横行・横暴な振る舞いに対して軍事力格差を考えて自・公・民の政治家たちも直弼と同じ苦渋の政治判断から実力行動を控えて、穏便過ぎるまたは弱腰の感を国民に与えるような対応をしているのであろうか。)

 天皇は、勅許なしの通商条約調印に怒り、神州を汚す天下危亡の元になることであり、幕府の専断を存外の次第であると非難し、どこまでも許可しないと言い張る。幕府側は、国際関係に於ける軍事力等の彼我格差に関する現実的認識から祖法の鎖国政策を捨てて開国、交易に踏み切ったのに対して、孝明天皇は日本を神州と見る天孫意識に凝り固まって、国際政治の何たるかの時代認識に欠けていて現実的な判断が出来なかったと言える。天皇は禁中並公家諸法度を無視して、幕府及び御三家の1つで尊皇攘夷派に立つ水戸藩に対して「幕府は諸大名と群議して、国内治安、“公武合体”、内を整えて外国の侮りを受けぬように」と勅命を下す。これは幕府の為政に口出しする、禁中並公家諸法度に違反する、江戸時代を通して前例のないことであった。手強い外国を相手に現実政治を担う幕府の苦慮のほどが分かる。大老井伊直弼は、2つの策を以て天皇の強気に対して対応する。1つは朝廷内外の尊王攘夷派の弾圧である。公卿や宮様らが次々と逮捕される。在京諸藩志士たちは逃亡または捕らわれる。捕らわれた武士の中には吉田松陰や橋本左内のように死罪される者が出る。公卿たちは戦々恐々して意気消沈してしまう。いわゆる「安政の大獄」である(1859年)。もう一つは、天皇の勅命を逆手にとって天皇の異母妹、和宮を将軍家茂の正室に迎えて公武合体策を積極的に推進する。天皇は烈しい攘夷派であったが佐幕の立場にあったし、公武合体となれば朝廷側が幕府の執り行う内政に口出しが出来るという思惑もあり、和宮降嫁容認に傾く。幕府の方は、皇妹の将軍御台所(正室)降嫁の勅許を条件に通商条約廃案か、或いは外国船打ち払い(攘夷)かのいずれかを実行すると約束(空手形?)をする。天皇が15才年下の和宮の降嫁勅許を出すことになり、和宮は中山道を東に下る。婚儀は翌年に執り行われて、共に16才前後の可愛らしいカップルが誕生する(1862年)。これで日本が公武一体になって富国強兵に励み、強大な異国からの侮りを跳ね返す態勢を築いたかに見えるが、この慶事の2年前、大老井伊直弼が桜田門外で尊皇攘夷派の志士たちに襲撃されて倒れる惨事(1860年3月)が起こって、これ以降世の中が風雲急を告げる世相になって行く。
 開国・開港で異国人天誅のテロ襲撃事件が続発する。ロシア人士官、水夫殺傷事件(1859年7月)、プロシャ公使館員ヒュースケンの暗殺事件(1860年12月)、水戸藩浪士らによるイギリス公使館襲撃事件(1861年)、津島久光一行によるイギリス人商人らの無礼切り事件(生麦事件;1862年8月)、長州藩士らによるイギリス公使館焼打ち事件(1862年12月)など、過激な攘夷運動の暴走が起こる。長州藩、土佐藩、薩摩藩など西南の大藩においては尊王攘夷派が勢力を増して藩論を攘夷論へと傾ける。薩摩藩などは薩摩、長州、土佐の三藩主の名で攘夷勅命を幕府に向かって下すようにと朝廷に建議する始末であった(1862年九月)。
 朝廷はこれを受けて、攘夷勅命を伝える勅使を江戸に派遣する。幕閣は勅命に混乱、困惑するが結局、将軍家茂が勅命奉承の答書を送った上で、わざわざ上洛し、攘夷の方法など子細について説明することにする(1863年3月)。朝廷直属の親兵組織設置を要求されたがこれはさすがに拒絶する。しかし、攘夷の開始期日の明示を求められて、攘夷開始を同年6月25日と答えてしまう。幕府はもう後戻り出来ない窮地に立たされる。諸大名の力を借りなければならない幕府は、諸大名統制の政治的装置であった「参勤交代制」を緩和して、3年一勤としさらに大名の妻子の江戸詰を緩和し国許に帰国を許す。もうこれで諸大名に対する制圧的力関係が実質上崩れることになる。諸大名は参勤交代にかかる膨大な費用が軽減され、藩独自の対外軍備整備に掛かることが出来ることになり、以前のように幕命に従うという気が薄れ、後述する第2次長州征討の際のように出兵要請にも応じなくなり、ついには幕府崩壊につながることになる。
 
注解:
 @禁中並公家諸法度: 江戸幕府初期に制定された皇室および公卿・公家天皇の行動を規制する法度である。官位の授与は幕府に内諾を得て行う、武家への官位授与に関しては官外位として幕府が行う、皇族、公家は専ら学芸に励むこと(つまり幕府の為政には口を挟むなということ)などを規定して朝廷の統制を計ったものである。
 A参勤交代: これは武家諸法度に規定されたもので、将軍と諸大名との君臣関係を強調して、幕府による諸大名を取り締まる極めて有効な制統制として機能していた制度である。軍役名目で1年間の江戸詰出仕義務を諸大名が課す。江戸詰が明けたら国許に一年戻して、翌年春に再び江戸出仕させるという、一年江戸在勤、一年国許の交代勤務である。妻子はいわば人質として江戸に留まる。参勤交代の大名旅行費用や江戸屋敷経常経費、それに往復路で通過する他藩への付け届けや贈り物等で莫大な出費があるために諸藩は財政圧迫を強いられる。鍋島藩のように遠路参勤する藩は藩予算の過半数の出費になっていた(中央公論社版「日本の歴史」15巻;江戸幕府)。私の知るところでは秋田の久保田藩では参勤交代にかかる費用が藩予算のなんと7割弱も占めていたと言われる(秋田市千秋公園内の久保田城御隅櫓内展示パネルより)。

 攘夷決行開始期日の1863年6月25日が迫る前後に、薩摩藩と英国艦隊との間に合戦が始まったてしまうし(薩英戦争;1863年7月)、長州藩が下関海峡通過のアメリカ商船を襲撃するは、下関海峡豊浦沖に仮泊中のフランス軍艦を砲撃する(1863年5月)はという事態になる。薩摩藩は英艦隊の圧倒的な砲火の前に惨敗し(1863年7月)、長州藩は英仏米蘭の4カ国連合艦隊の報復砲撃(1864年8月)を受けて完敗して、両藩とも戦力格差の開きすぎている欧米軍隊を相手に攘夷に走ることがいかに「蟷螂の斧」の愚であることかを思い知らされる。両藩とも時の潮流であった尊皇(勤王)攘夷運動を尊皇倒幕運動の方向に大きく転換することになる。敵を知り、敵から学び軍事力を備えることの重要性を知って、薩長両藩は欧州に留学生を密航させる(長州藩は早くも1863年に、薩摩藩は1865年にそれぞれイギリスに留学生団を密航・派遣する。因みにこの点幕府は後手に回り、、通商条約批准書交換のために遺米使節団を1860年に派遣、続いて遺欧使節団を1861年に派遣、オランダに留学生を1862年9月に派遣。もちろんこちらは幕府公認の派遣である。)。
 開国・開港を海外に対して宣言している幕府は、長州藩の外国船襲撃は許し難く、諸藩に出兵を促し長州征伐軍を送り、総攻撃を開始する(1864年11月)。幕命を受けて出兵した諸藩の志気は上がらず、中には従軍辞退する者が現れる。しかし西郷吉之助(隆盛)が征伐軍総督参謀になって参陣した薩摩藩の働きなどと長州藩内紛が加わり、長州藩を降伏させ、長州征伐が終わる(同年12月末)。これで一件落着ということにはならず、一年半後にまた一波乱が起こる。すなわち第二次長州征伐(長州再征;1866年6月)が始まる。同年1月に幕府は長州藩処分を決め勅許を得る。長州藩領10万石削減、藩主隠居という処分内容を長州藩は受け容れないばかりか、兵砲等を仕入れて反抗の構えを見せたので、幕府は再度の長州征伐に踏み切ることになる。しかし今回の長征では諸藩が出兵を渋り、第一次長征で中心的な働きをした薩摩藩が反対するという不利な状況であった(同年1月に薩摩・長州藩同盟が結ばれている)。薩摩藩は「此度の私戦に兵を出す道理なし」(西郷吉之助)と反対するし、幕府内でも「再征の名義明らかならず、再考を要すべし」(第一次長征軍前総督、徳川慶勝)の声があったのに拘わらず、再征を開始したのは、1つはフランスの後ろ盾を当てにしたこと、2つに幕府権威の過信と敵長州藩の実力の軽視、3つ目に前回と違い此度は将軍自ら出陣するという威圧効果の期待があったからと言われる(中央公論社版「日本の歴史」19巻、pp401−409)。
 長州再征軍は4手に分かれて、山陽道、山陰道、下関・小倉口、四国口から長州藩に包囲攻撃を掛ける。対する長州藩は、軍備の近代化と兵制改革を整え、優れた指揮官(大村益次郎、高杉晋作、山県有朋ら)を擁して迎撃する。戦いが実質上、幕府・長州間の合戦の様相を呈することになるが、結果は幕府軍の大敗、完敗となる(この辺の事は、司馬遼太郎の時代小説、「花神」新潮文庫;大村益次郎主人公及び「世に棲む日々」文春文庫;高杉晋作らの活躍の2作品に詳しい)。これに大阪城に構える総大将、将軍家茂の急死(1866年7月)が重なり、幕府軍はますます苦境に陥る。将軍職を継いだ一橋慶喜(徳川幕府最後の第15代将軍徳川慶喜)は劣勢挽回を一時試みるが断念し、朝廷の力を借りて休戦の御沙汰を発して貰い、長州藩と停戦合意を結ぶ(1866年9月)。しかし長州藩は親幕小倉藩の領内への侵攻を止めず戦いを続行する。長州藩の停戦合意違約を咎めてこれを止めさせる威力がもはや幕府にはなくなっていた。これに追い打ちを掛ける事態が同年12月に起こる。すなわち、天孫意識が強く、神国日本への異国人来集を忌み嫌い攘夷の旗頭になっていたものの親幕府の立場を取り続けていた孝明天皇が痘瘡を病んで36才の壮年で崩御される(1866年12月25日)。天皇の死去は、尊皇倒幕勢力側にとっては討幕運動の大きな障害が失せて倒幕・国政改革の推進に拍車が掛かり、幕府側にとっては力強い後ろ盾を失ってますます窮地に堕ちることとなる。かくして、265年間15代と続いて泰平日本を維持して来た江戸幕府は秋日の日没の如く急速に凋落してゆくことになる。そして新しい日本の夜明けとなるのである。
 歴史にもし(i f)は禁物であるが、孝明天皇がもう少し長く存命であったとしたら、あるいは西南戦争や戊辰戦争のような不幸な内戦で悲痛・悲嘆する者もなく、国民全体が喜び挙って新しい日本の建国に励んでいったことであろうと、想像する。


 参考文献、資料
  
  中央公論社版「日本の歴史」12巻(天下統一)、13巻(江戸開府)、15巻(大名と百姓)、19巻(開国と攘夷)   児玉幸多編「日本史小百科;天皇」近藤出版社
  高森明勅監修「歴代天皇事典」PHP文庫
  岩波版「日本史辞典」岩波書店  
  歴史読本特集(2004年月号);天皇家125代ーライバルと補佐役 


 2. 天孫意識が感じられぬ天子イメージから遠い上昇志向停止の天皇

 話の続きとしては、今回通信が長くなってしまうが、上記標題の元に天子として影の薄い天皇例を語ることにする。
 最高位に在る者は国王であれ独裁者であれまた法皇様であれ、その即位礼と葬儀は最高位者に相応しく壮麗壮大に執り行われなければならない。ましては天照大神につながる天孫である天子様の場合はそれがとくに求められるはずであったが、すでに触れたように天孫統治空白時代に於いては全くこれとは違って、ご遺体は葬儀をしないままに1ヶ月も御所内に置かれるとか、即位礼が10年後、20年後まで延期される有様であった。天子様のご威光が地に落ちていたといえる。空白期間では元服前に皇位に就く「幼帝」が多く見られる。元服式を待たずに13才以前即位の例が44代中なんと半分に当たる20代で見られる。そのうち5才前に天子様に登られた幼帝が六方居られる(87代四条天皇2才、83代土御門天皇と85代仲恭天皇及び89代後深草天皇の3帝が4才、100代後小松天皇と108代後水尾天皇5才)。外では守護大名、戦国大名が覇道を競い合っているし、朝廷内には財力武力に欠けるが策謀奸計の知恵がある廷臣が勢力を持っている中で、幼帝に天孫統治の親政も天孫統治の復興も期待が出来ない。それに在位期間が10年に満たない例もあり(85代仲恭帝4ヶ月;承久の変で配流・廃位、88代後嵯峨帝4年で譲位、北朝初代光厳帝3年で後醍醐天皇の建武新政で廃位、同じく北朝3代崇光帝4年で尊氏の寝返りに遭い廃位・幽閉、117代女帝後桜町帝9年で中継ぎ皇位の役終えて譲位、118代後桃園帝10年未満で病死)、時間的にも天孫統治は無理であった。
 お内裏様となった天皇の方々には、上で紹介したように天孫意識を堅持される方や学芸に精進される方も居たが、多くは天子様のイメージから遠い方々が見られる。その例として以下に御三方を取り上げる。

 1)北朝第五代後円融天皇(在位1371年ー11382年)

 将軍義満が南北朝を吸収合併する形で朝廷の一本化に成功し、対明国貿易で「日本国王」と称して権力者として意気盛んな頃に、天皇は義満の擁立されて皇位に就く。義満が朝廷の諸事に介入するために天皇には実権がなかったと言われる。出産を終えて宮中に戻った皇后(三条厳子)を殴打するとか、愛妾の局が義満と密通したと疑って局を出家に追い込んだりする事件を起こす。また義満が自分を配流にすると疑い、自殺未遂事件を起こす。しかし一面、好学のしでもあり著書を残す(「後円融院御記」、「後円融院御百首」)。
  後円融帝の歌: 夕汐のさすはつれし影ながら 干潟に残る秋の夜の月

 2)第118代後桃園天皇(在位1770年ー1779年)

 将軍家治の側近で「侍にあるまじき心をもつ商人の如き老中」の田沼意次が幕政を握る、上も下も賄賂・猟官が盛んであった時代に皇位にあった後桃園帝の禁中は、時代を反映したのか宮廷内の風紀、規律が乱れる。禁裏賄方役人が公金横領し奢侈に耽るという事件が起こる。天皇は寛大な処分を幕府に求めたが、拒否されて多くの賄方役人が解職処分になり、また4名人の死罪者と5名の遠島配流者を出す。もともと虚弱体質であった天皇は在位10年で亡くなる。

 3)第89代後深草天皇(在位1246年ー1259年)

 最後に、時代を遡って皇統が持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)に分かれる発端期の持明院統の後深草天皇を紹介する。天皇は在位5年未満の父帝から譲位を受け4才で即位するが、治天の君として院政を執る父後嵯峨上皇の支配下にあり在位14年で父上皇のお気に入りの実弟恒仁王(次期帝の第90代亀山天皇)への譲位を迫られて退位する。彼は小柄で足腰の発育が良くなく、これと対照的に丈夫で利発である弟皇子恒仁王に比べられて、父母から受ける愛情が薄かったと伝えられる。さらに14才で11才年上の叔母に当たる女性を皇后に迎えさせられる。つまり父帝中宮で母上の妹君を嫁にしている。この天皇の屈曲した生い立ちとさえぬ体つきとが影響したこともあってか、天子様のイメージからは随分遠い帝であった様子が、後深草院に幼少からお側にいて長じては天皇に仕えた女官で、院の愛妾でもあった後深草院二条が書いた日記文学「とはずがたり」に詳しい。以下にこの女官の書いた5巻に及ぶ自伝的作品を元に後深草帝の行動・事跡を見ることにする。
 @天皇は新枕(男女の交わり初体験)の手ほどきを大納言典侍から受けたが、その典侍(後宮の上級女官)が夫久我雅忠との間に作者二条を産んだ4年後に早世してしまう。天皇は、典侍の形見だと幼女二条を身許に引き取って育てる。彼女が長じて14才になるとその美貌に惹かれて彼の後宮に入れて側女とする。
 A愕く少女二条を手籠めにして子を孕ませる。生まれた皇子は夭折する。少女二条は天皇の皇子を産んだことなどで皇后東二条院様から嫉妬と勘気を買う。
 B天皇は、二条が宮中に仕える他の男性と逢い引き、契りを結ぶのを黙認するだけでなく、その機会をわざと作りそれを勧めて、あとで逢い引きの様子を楽しむという変わった好みを度々見せる。近衛大殿と呼ばれるお方(鷹司兼平)や天皇の愛皇女の重病治療に招聘されている加持祈祷僧(「有明の月」)との契りを唆され或いは強要されて、彼女は二人の男性の子を産むことになる。
 C女官二条が天皇の弟、亀山院との間柄を疑われて朝廷から放逐されるが、後深草院(上皇)がこれを庇ったという記述はない。二条は出家し、東国へ西国へと遍歴の旅に出る。京に帰った折に後深草院(彼も出家し、法皇)の野辺送りに出遭い、愛憎混じる思いの中、かっての恋人の霊柩車の後を裸足で追いかける。
 D後深草院は同母弟の亀山天皇との確執があって、皇位を譲り渡した亀山天皇が皇太子に自分の皇子(世仁王)を立て後深草院の皇子を外したことに大不満であった。これに抗議し、思いを遂げるために亡き父後嵯峨上皇三回忌の折、血写書した法華経を以て祈願したと伝えられる。さらに出家を決意して亀山帝を困らせて、弟帝は世仁王(第91代後宇多天皇)に譲位した際に、幕府の意向に従って不本意ながら後深草院の皇子(のちの第92代伏見天皇)を皇太子に立てる。(その伏見天皇の即位3年後に数人の武士が宮中に乱入して新帝暗殺を企てる事件が起こっている。)(D;高森明勅編「歴代天皇事典」より)
 同腹の兄弟が争ったことから皇統が持明院統と大覚寺統の2つに割れることになり、第96代後醍醐天皇になってあの不幸な南北朝動乱が約半世紀に亘り続く結果になるのである。
 後深草帝の歌: 石清水ながれの末のさかゆは こころの底のすめるゆゑかも
              (私評;帝はどなたも歌の道に心得がお有りになる。) 
 
 語らずにはいられないから記した「とはずがたり」は、後深草帝の宮廷・後宮内に於ける退廃的な男女関係,愛欲絵図を赤裸々に描出した文書であり、公表を憚る日記文学であった。ウイキペデア(Wikipediaの「とはずがたり」)によると、そんなこともあってか、この書の存在は近現代の1940年(昭和15年)まで知る人が少なかったと言われる。一般公開されたのは終戦後の昭和25年(1950年)であるそうである。


  参考文献・資料

 「1.天孫統治を目指した天皇」の項と重複するものが多いが、これに追加する文献、資料は以下の通り

 中央公論社版「日本の歴史」;9巻(南北朝の動乱)、11巻(江戸幕府)、17巻(町人の実力)、
                   18巻(幕藩制の苦悩)
 次田香澄著「全訳注とはずがたり」;講談社学術文庫(解説も参考になる)
 Wikipedia「とはずがたり」
 ドナルド・キーン著「日本文学の歴史」第5巻(古代・中世編5);中央公論社(キーン先生も「とわずがたり」を取上   げている)
 平凡社「日本史大辞典」
 岩波「日本古典文学大辞典」
 Wikipedia「とはずがたり」
 
 


 




 
  

  

  

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2013/07/05 15:50

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