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zoom RSS 遠野出身者の東京見聞131:まほろばの地の歌枕;「堀兼の井」、「大富豪綿貫家」(タイトル修正と補足)

<<   作成日時 : 2015/05/10 16:29   >>

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 住めば都というが、居を構えて30年以上になる埼玉県狭山市はまほろばの地である。市内を流れる入間川からは富士山が眺められる。空気がきれいな晩秋から早春にかけて白富士が望める。この時期には茜空をバックにした富士のシルエットが一幅の絵になる。狭山から約100km離れているのに五合目よりかなりの下の方まで望むことができる幸せを味わえる。狭山丘陵の一角に位置する狭山は、コクのある風味で有名な狭山茶の産地の一つであり、一面に広がる緑の茶畑を眺める楽しみも加わって、味覚、嗅覚、視覚と多感覚の喜びがある。
 また、私鉄を使えば都心に1時間で行くことができる。圏央道に乗れば中央高速道、関越道、昨年からは東名高速道に連絡ができて迅速な移動も可能な立地条件である。暮らし面でも恵まれているのがよい。地元産の新鮮な野菜類が手に入る地域農家グループが経営する直売店と広域JA経営の農産物直売店が自転車で行ける距離にあって助かる。さらに、これまた自転車で廻れる範囲内に4つもの中大スーパーがあって、大義がらなければ値段を比べて経済的な買い物ができる。気候は夏涼しく、冬の雪害などとは全くの無縁の穏やかな土地柄でもある。さらに嬉しことは、航空自衛隊の基地が近くにあることからポジティブに考えるとこの武蔵台の地盤が飛行場に適しているほどに堅いと考えることができる。確かに地震があっても大きい揺れをこの30年間で経験していない。
 ハイカラさに欠ける所が多少あるが大規模な公団住宅団地が近くに広がっている。桜の時期には団地内で咲き誇る桜のもとで花見ができる。両側にけやきの街路樹がつながる長い道筋にはベトナム人が経営するしゃれたフランス風のコーひー店があるし、自然酵母で熟成の美味しいパンを提供するパン屋さんもある。ここの店には市外からも常連客が来ている。 
 「けやき通り」を離れても、小生の趣味を満たしていくれるスポットが見つかる。以前は古典的な古本屋さんが近くにあったが書籍離れの時勢から廃店になったが、探せば市内に一軒だけ昔ながらの古本屋が残って居て重宝している。この店は自分の建物でやっており、家賃不要の上にアマゾンと契約してそちらで捌くので電子書籍や本離れのハンデを乗り越えて昔風の古本屋を続けているそうである。また、甘党の小生を喜ばして入れるフランスケーキ店もある。此処のフランス菓子天下絶品である。同じ界隈に地元の小中学校卒業生のフランスはパリーで修行、向こうのパンつくりの資格まで取得した青年のパン屋もある。食べ物だけではない、この地には童句なるものを愛好するグループがあり、街頭柱には全国の童句愛好の子供や大人が作句した句が紹介sㇾている。近くにあるスーパーに行くときとこ時これらの俳句に目をやる。次に見るように、歴史的にもこの地は盛りだくさんの物語が有る。この地は真に「まほろばのち」と言える。
 
  童句例:   つぶらな目 みな笑ってる しらすぼし  童句創始者 土屋由岐雄
   ランドセル ほっぺでちょと 触れてみる   男児
           けん玉の 妙技見せて 卒業す        男児
           見上げてる おねしょう布団と 鯉のぼり  女児
           白酒や ママもあった 隠し芸         男児
     
 それでは本題に入りましょう。狭山市は歴史的にも語るべき事柄が結構あることを、最近になって分り出してきた。以下にいくつか紹介しましょう。

 1、 縄文時代: 
   この地を流れている入間川沿えの高台にはすでに縄文時代から人が住み暮らしていたことが遺跡発掘から分かっている(上広瀬上ノ原遺跡、今宿遺跡など入間川北側台地)。今の東京湾に当たる内海が埼玉県の奥深くまで入り込んでいたといわれるが、その当時でもここ狭山市を含む入間地方は陸地であったことが知られる。

 2、 古事記の神話時代:
   初代天皇とされる神武帝から数え第12代景行天皇の次男である日本武尊が狭山市の入曽と云う所を訪ねている。蝦夷征伐の帰路に武蔵台に立ち寄った際、地元民が干ばつで苦しんでいるのを知り、富士山に祈願して清水を湧き出させたと言い伝えられている。入曽にある堀兼神社の境内にその井戸とされる「堀兼の井」といわれている空井戸が今でもある。地下水脈まで掘り当てるのに難儀するこの地方では、昔はすり鉢型に大きく穴を掘って穴底から掘り込んで井戸を作る「まいまいず井戸」であった。境内に今見る「堀兼の井」はその作り方である。 この「堀兼の井」が奈良時代から和歌の歌枕に使われていたと知って驚いた。紀貫之、西行や慈円などそうそうたる歌人がこの枕詞を使っている。

   はるばると思ひこそやれ 武蔵野のほりかねの井に野草あるてふ 紀貫之
  
   汲てしる人もありけん おのずから堀兼の井のそこのこころを    西行

   いまやわれ浅き心を わすれみすいつ堀兼の井筒なるらん     慈円

   武蔵野の堀兼の井も あるものをうれしや水の近づきにけり    藤原俊成
   むさしなる堀兼の井の底あさみ 思ふ心を何にたとえむ

   井はほりかねの井、玉ノ井 走井は逢坂なるがをかしきなり    清少納言

   いかでかと思ふこころは 堀かねの井よりも猶ぞ深さまされる   伊勢(女流歌人)

   あさからす思へはこそ はほのめかせ堀兼の井のつつましき身を 源俊頼

   おもかげぞかたるに残る武蔵野や 堀兼の井はなけれど      道興大僧正 

 3、 奈良時代:
    この頃には入間地方は開けていたようである。武蔵国と上野(上州)の国府を結ぶ「いるま路」が通っていた(日本書紀 720)。萬葉集(巻十四)には、武蔵野の国歌として「いりまじの おほやがはらのいわいつら  
ひかばぬるぬるわになたえそね」(「いるま路の おほやが原の いわいつら;つる草 引かばぬるぬる わに
な絶えそね」)という歌が記されている(狭山市の市役所敷地内にこの和歌の石碑が建ってある)。狭山市と直接には関係がないが、隣接の日高市の高麗郷に半島からの渡来人の高麗人の一群が朝廷の命により入植した(716年)。

 4、 鎌倉時代: 
   日本史の重大な節目に登場した人物にまつわる故事が伝えられている。
 一つは木曾義仲(源義仲)の嫡男であった源義高の悲劇的な終焉の場所が狭山の入間川岸辺である。父の義仲が源頼朝の平家打倒と挙兵したのに呼応して京へと攻め、両雄の奮闘で目出度く平家を倒したが、その後に両者が対立し、人質同様の身で鎌倉に有った義仲の嫡男の義高は身の危険を感じて密かに逃亡を図った。しかし、入間川の渡しにたどり着いたところを鎌倉の追手に掴って川辺で斬首されたと伝えられている。年少の若殿の死を悼んだ地元民が建てたと言われる祠が今もある。入間川の洪水でたびたび流失したが、いま国道16号線沿えに建つ社は建て替えられたものである。義高にまつわるものとしてもう一つ、対岸を少し上りかけの所に「影隠地蔵」と呼ばれている、川を渡って追手から身を隠そうとその陰に隠れたと伝えられる地蔵が今も残されている。 
 もう一つは、 新田義貞にまつわる故事である。新田義貞が足利尊氏の挙兵に呼応して鎌倉攻めに向かう途上、入間川河岸高台にある八幡神社に立ち寄って戦勝祈願をしたと伝えられている。その際に神社境内で駒をつないだ松だというのが今もある(「新田義貞駒つなぎの松」)。

 5、 南北朝時代:
   足利尊氏の四男、足利基氏が鎌倉府初代公方になり、若くして関東に赴任した。しかし、南朝に組する新田勢が北から攻め来るのに備えるために防衛線として要衝であった入間川の渡しがある狭山の地に陣屋(「入間川御陣」)を構えることになり、「入間川殿」と呼ばれて13歳から18歳に至る6年間の青春期を過ごしたと伝えられている。残念ながらその御陣なる遺跡は現在のところ見当たらない。郷土史遺跡リストにも紹介さていない。多分、新田義貞が鎌倉攻めに向かうときに立ち寄って駒をつないだ八幡神社境内を中心にする辺り一角がそうだろうと言われる。
 6、 室町時代:
   この時代、狭山の地を舞台にした狂言がある。狂言「入間川」である。或る大名が訴訟の件で京に赴いたがなかなか訴訟の結着が付かず在京が長引いた。やっと解決して、しかも予想外の領地まで頂くことになり、喜び勇んで帰郷の途に就くことができた。入間川川縁にたどり着いて渡河の件で地元の人と話し合うが、この辺で「入間様;イルマヨウ」と呼ばれる逆さ言葉が流行っていたから大変、大名と地元民との間で交わされる会話はチグハグ、トンチンカンとなると言う内容である。狭山市では狂言愛好者のグループの努力によって、ここ20年以上にわたり、「入間川」の演目は毎年、他に年毎で変わる3演目を加えた4演目から構成される狂言鑑賞会が開催されている。今春、鑑賞会を初めて観覧したが、居住地にこんな素晴らしい古典芸能を観る催しのあることを知り、大感激であった。『入間川』の大名役にはの日本の二大能狂言流派の一つである大蔵流の山本会当主で、人間国宝であられる山本東次郎師匠自らが演じられた。

 7、 戦国時代:
  諸侯が覇権を争う戦国の世は、関東も戦乱の世であった。ここでは旧支配者上杉と新興の小田原北条が覇を競っていた。北条勢に押されて北に移っていた上杉勢が北条が占拠していた川越城の奪回を図り、約7万の大軍でこの川越城に包囲網を掛けた。その際に包囲軍勢の砦の一つを入間川北岸の高台(今の狭山市柏原)に作った。この砦跡は現在、市の歴史記念物として整備されている。この包囲戦の行方を説明すると、援軍に駆け付けた北条側(約8千騎)は大勢の包囲軍との真昼の対決を避け、夜間攻撃を小出しにしてはすぐ退却を繰り返し、援軍には本気の戦意が欠けているように見せかけて機会をうかがい、ついに大規模な夜戦奇襲に打って出て上杉軍勢を敗北させた。これが戦国時代の三大夜戦の一つとされる「河越夜戦」である。

 8、 江戸時代:
   江戸時代に入っても狭山市は、日本の政治中枢と縁があった。二代将軍の家光公がこの地に鷹狩りにきており、市内にある広福寺で休憩したと伝えられている。ほかに江戸時代で特記するべき史実は、柳澤吉保が川越城主であったときに推進して現在もその面影が色濃く残っている新田開拓事業である。水利があまりよくない武蔵野台地を耕作地として開拓した(三富新田;上富、中富、下富を中心に所沢や狭山の一部も含まれる)。入植者一人当たり、幅約70m、縦約680mという短冊形の広大な区画を割り与えた。これらの新田(と言っても畑地の耕作地)を囲むように雑木の平地林を造成させ、落ち葉を堆肥利用するとか木の実採取、さらには防風林の役もさせるという多目的、今でいうところの循環型農業の走りになることをした。薪木としても利用できた。吉保の心配りの行き届いていることは、入植した農民の心の拠り所にと寺院までも建立していることである(今も残る多聞院と多福寺)。この辺りでは家の神棚に柳澤吉保を祀って敬う農家が結構居るとのことである。通俗的な日本史では彼の評判があまり芳しくないがこの地方における評判は逆であると思い知らされる。
 もう一つ特記すべき史実として、「西の鴻池、東の綿貫」とも称せられた大富豪が狭山市に居たことである。初代綿貫庄左衛門が上州は高崎の綿貫村から武蔵のこの地に出てきて、財を成したことから綿貫家の繁栄が始まったと言われる(江戸時代、綱吉、吉宗の頃)。江戸時代後期には江戸にも進出して店を構え、大名や旗本など大金を用立てする大富豪になった。しかし、幕府が倒れて明治の代になると、再起を期した朝鮮での事業に失敗し、全財産を失って没落したと言われている(狭山の長者伝説等、地元資料から)。現在、綿貫家との所縁のあるのは、中央図書館へ上る車道脇に建つ福徳寺境内にある綿貫家の墓地ぐらいである。名市長であった大野松茂の家は、かって綿貫家の地所や耕地を管理、耕作していた家柄であると言われる。
 一方、柳澤吉保が残した三富新田(田んぼでなく畑地)は今でもかなり残って在る。平地林も住宅化の大浪で削られていながらも残っていおり、新緑に輝く林間をサイクリングする楽しみがある。青々とした畑地や鮮やかな緑に燃える茶畑を眺められられる楽しみまであって、まことに、、まさに字義通りに「有り難いこと」である。住宅団地隣に残る林は保存林として残すように住民や自治体が努めいるのは頼もしい限りである。廃校になって校舎は解体されても校庭の只中にあった一本の見事なけやき大木は切り倒されず今だに毅然とそびえ立っているのを見ると、この地の人々の樹木に寄せる厚い思いを知ることができる。山間地に生まれ育った私にはこの狭山の地は正に文字通り、『まほろばの地』である。

 幕府のお膝元と言えるこの地方には三河時代からの徳川家譜代の家臣(旗本)の知行地が散在していたそうである。陋宅の近くには旗本小笠原家の菩提寺が現存している。この天しん寺に小笠原家歴代当主の立派な墓がある。またここの唐風惣門は特色があって、潜るたびに興を感じる。

 9、 明治以降:
   強いて挙げると、戦前に高射砲を備えた陸軍飛行場があった。終戦後は米軍航空基地(ジョンソン基地)になり、現在は航空自衛隊の入間基地になっている。北朝鮮の物騒な動きが激しくなる折には近くある航空基地の存在が頼しく感じられてくる。また、梅雨空が続くと自衛隊機の爆音がこれまた頼もしくる聞こえて来るから不思議である。もうご存知かと思うが、狭山にはHONDAの本工場がある。ロッテの工場もある。近在の市町の方々は狭山市の市民税等が安いと言っている。例えば、確かに平成27年4月から値上げになった介護保険料は狭山市も例外なく1.8倍になっているが月額が川越、所沢、入間、日高に比べ安い。航空自衛隊基地がる言っても次に紹介するように、メリットもある。

       拙句一首: 梅雨空の 鬱気を払う 爆音か

   追補: 2点を追補する。1つは狭山市駅の駅前再開発で、以前の田舎駅の有様が一変して、地方都市にふさわしい姿に変わったことである。駅に集う利用者の姿までが田舎者から都市市民らしい恰好の人たちに変わっている。ゆっくりとコーヒーなどを飲みながら語らえる店も開店していて、電車利用の他にも人々が集まっている。市民はこの再開発・整備の費用の負担を背負わねばならないが、これは覚悟のことである。
 2つ目は、この市には、何と日本の古典芸能(能狂言)鑑賞を鑑賞する市民団体があることである。この団体の正式名は「「狂言入間川を観る会」とよばれ、平成28年度は第22回目になる。狂言『入間川』は市内を流れる入間川を題材にした演目(入間ことば;逆のことを口にするじゃれ事)である。能狂言の二大流派の一方である大蔵流山本会の師匠、山本東次郎氏ご自身が出演して下さる鑑賞会である。古典芸能を一市お手伝いをしている。市民団体が古典芸能鑑賞会を主催して続けているのは大変珍しい企画である。小生はこの会の趣旨に賛同して昨年から会員になっている。今年は3月6日(日)に市民会館にて開催される(料金は小少高めで、3,500円、都心の能劇場で鑑賞する本格派演出であるのだから当然のこと、電車代を割り引けば安い)。一見の価値がある。
 もう1点を追加、私的なことであるが狭山の魅力と思っていることを述べる。小生が今住んでいる市内の地区には、以前触れたと思うが、しゃれたコーヒー喫茶店がさらに新たに出来ているし、既存のスーパーは張り合って店内改装、サービス向上を心掛け消費者には嬉しい競争である。何と、生協までが店内にテーブル附きの休み場を割いている。今までは外に長椅子があるだけで、冬季間は寒くて利用が出来なかった。
 さらに最近分かったことであるが、マイホームが建つ敷地が戦前の軍隊が反動の激しい高射砲の設置に選んだ土地で、岩盤がしっかりしている。少々の大地震でもグラグラしない場所である。人生三惚れと言う言葉があるが、仕事に惚れる、伴侶に惚れる、そして三番目になる「土地(住居地)に惚れる」の当たる地である。
 
 狭山市以外の特記すべき近郷の見どころも紹介しよう。
 1つ、1300年前に朝鮮半島の高句麗の子孫が移り住んで入る「高麗郷」が狭山市北隣の日高市にある。ここの高麗神社は出世委神社と言われている。歴代在日韓国大使は赴任の時には例外なくこの神社に参拝している。売る。裏山はなだらか山並みがつづく、心穏やかになる風景を為している。私は、この辺をサイクリングのコースの一つにしている。
 2つ、シベリアから白鳥が川越の北隣の川島町の越辺川(おっぺかわ)に毎晩秋に飛来して、翌年春にシベリアに帰って行く。50から100羽が飛来する。堤防脇には駐車所とトイレがあって白鳥見物者のため便を図っているので、ぜひ見物をお勧めする。この川島白鳥飛来地は飛来南限地だそうである。飛来する白鳥は、北極海に面する北シベリアを繁殖地にしており、日本列島には2つのコースで南下してい来るとのこと、一つはカムチャッカ半島ー千島列島を下り、もう一つはオホーツク海を渡りサハリン(旧樺太)経由で北海道を下ってくる。東日本(秋田、宮城、福島》を飛来地にするが一部が関東の川島町の川辺にも飛来する。
 3つ、武者小路実篤の「新しき村」が埼玉県毛呂山町に今もある。日高市から八高線沿えに北上してい行くと右手に看板が見えるのですぐ分かる。ここには新しき村興しの賛同者が耕作し乍ら暮らしている。一部は都心に住んでいる会員も多数いえるとのことであった。集会所や実篤記念館が境内にある。電力は太陽熱利用である。発祥地九州の新しく村は土地の他利用のために追い出される形で離れ、関東のこの地に移ったことである。

 
    
 
  
  


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